「会社のため…」詐欺にあった大庭氏の悲惨な末路
「融資額は3,000億円」
これは現在の貨幣価値にすると6,000億円以上になる。「年利は4・5%で返済期間は30年」こんな破格の融資条件は当時の銀行ではありえなかった。
この頃の全日空は終戦後から続いたGHQによる占領政策によって日本国籍の航空機の運航が禁止され、サンフランシスコ講和条約後にようやく運航禁止解除となったことで誕生した若い企業だった(1952年に前身である日本ヘリコプター輸送株式会社設立。1958年・極東航空株式会社との合併により全日空設立)。
自社の経営体制の確立だけではなく、GHQによる運航禁止期間に失業した民間航空関係者たちの救済も視野に入れた企業理念を掲げていた全日空には莫大な資金が必要だった。そんな時、鈴木明良から持ち込まれた巨額資金援助の話はまさに干天の慈雨であっただろう。
この時のやりとりで旧日本軍の隠し財産の呼び名として、その財産管理を担っていたマーカット少将のイニシャルであるMを用いた『M資金』という呼称が使われた。
大庭社長は、この融資欲しさに鈴木から指示されるがままに申込書や念書を何通も作成した。
社長が発行した申込書や念書はその後、児玉誉士夫の手に渡り、全日空の株主総会の席で「こんなバカ話を信用するような人物に社長は任せられない」と糾弾され、1970年5月、大庭社長は辞任に追い込まれた。これがM資金にまつわる最初の事件とも言われている。
旧日本軍の隠し財産伝説から始まるM資金の物語は近年においては詐欺のネタに使われることが多く、そういった詐欺事件を総じて『M資金詐欺』と呼ぶが、全日空の大庭社長がターゲットにされた時代は、まだ金品を騙し取られるといった直接的な被害を被る詐欺事件ではなく、このようないかがわしい物事に関わった人物の名声や社会的信用をおとしめて、失脚や失業を狙うといったブラックスキャンダルとして使われることが多かった。つまり、まだこの頃は金を騙し取る詐欺としては未完成の時期であった。
M資金という言葉は昭和30年代ごろから使われるようになったとも言われているが、M資金詐欺の立役者と言われた鈴木明良が政治家失脚後から詐欺師としての活動をスタートさせた1952年(昭和27年)を起点に、昭和30年代にはマーカット少将のMをとったM資金という言葉が経済界をベースにして、日本社会の裏側に伝播していったと推測される。
この頃は戦後のどさくさに紛れて、どうすれば金をふんだくれるか? と詐欺師たちが金脈を模索していた時期とも言える。
この事件以前では旧日本軍の隠し財産について「四谷の教会の神父が極秘に運用している」という噂から『四谷資金』や、アメリカが管理している財産なので『メリケンファンド(略してM資金)』など複数の名前で呼ばれていた。
全日空のブラックスキャンダルも「M資金のMがマーカットのMである」と世間一般に定着させた程度であった。
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