人々の「望ましくない行動」をコントロールするには?
さて、社会のみんなが非合理で、時として望ましくない行動を取ってしまうというなら、私たちの社会は一体どうなってしまうのでしょう。
コツコツ貯めておいてほしいはずの老後資金でギャンブルに手を出されてしまったり、生活習慣病の予防のための運動習慣も浸透せずにみんなが不健康になったり。かといって、禁煙や禁酒を強制されるのも嫌なものです。
こうした問題への対策として、行動経済学が取り組んでいるのが「ナッジ」というアイデアです。本稿では、非合理性への対処として注目されているナッジについて紹介していきたいと思います。
自ら行動を変えるように、それとなく促す「ナッジ」
ナッジとは「注意のために軽くヒジでつつく」という意味の英語です。
通勤電車で、隣で寝ているおじさんが寄りかかってきたらどうしますか? ヒジで軽くつついて、おじさんが起きたり姿勢を正したりすることを期待しますよね。こうした行為がナッジという概念の由来です。
直接起こして注意しても行動を変えてくれるかもしれませんが、あえて自分で気づいて姿勢を直してくれるように仕向けているわけです。
ポイントは、何か“報酬を支払ったり” “強制したり”しているのではなく、選択する人の自由意志を尊重しているという点です。ですから、ヒジでおじさんを強く“押しのける”という使い方はナッジにはなりません。
誰かの意思決定を、あくまでも“自発的に”その人や社会にとって望ましい方向にナッジするために、中心的役割を果たすのが「選択設計(選択アーキテクチャ)」です。
たとえば、情報の掲示の仕方や、そもそも複雑な契約ルールそのものを簡素化するなど、人々が直面する選択肢の設計を工夫して、意思決定をそっと後押ししようということです。
日本は10.2%だが…各国の「臓器提供の同意率」
これまでの連載でゴルフ、競馬と気軽なお話をしてきましたので、ここでは数ある社会問題の中から臓器移植を取り上げ、ナッジの効果を表す有名な事例について紹介しましょう。
日本臓器移植ネットワークのウェブサイトによると、2021年末時点で心臓・肺・肝臓・腎臓・膵臓(すいぞう)・小腸の合計で臓器移植を希望している人は1万5677人います。
一方で、今まで(1995〜2021年度)の臓器移植数の累計は7168件です。2021年度に限って見れば404件という数でした。
もちろん、国も何もしていないわけではありません。2010年には改正臓器移植法を全面施行(せこう)して、臓器提供可能者の枠の拡充や、同意要件の緩和をするなど取り組んできました。
しかし、それでも移植件数を見る限り、できるだけ臓器提供に同意してくれる人を増やしたい、というのは社会的な課題だと言えるでしょう。
さて、日本で臓器提供に同意してくれている人は、どれくらいいるでしょうか?
内閣府の「移植医療に関する世論調査(令和3年9月調査)」によると、臓器提供の意思表示について、「既に意思表示をしている」「既に意思表示をしたことを、家族または親しい人に話している」と回答した人の割合は10.2%です。
この数字はあくまで意思表示をしている人の割合ですから、意思を表示した上で臓器提供に同意を示している人の割合はさらに低いかもしれません。
実際、同調査で臓器提供をしたいと思うか問われた場合には「提供したい」「どちらかといえば提供したい」と回答した人が39.5%存在します。
もちろん、本人の意思以外にも家族が反対しているといった事情もあるでしょうが、実際に意思を表示してくれている人の割合とは大きな差があります。
では、他の国と比べたら、10.2%というのはどの程度の水準にあるでしょうか。【図表】では、少し昔の数字との比較になりますが、エリック・ジョンソン氏とダニエル・ゴールドスタイン氏が報告した先進諸国での実質的な同意率を示しました。
軽く見ていただいても、国ごとに大きな差があるのがわかります。しかも、オーストリアやフランスでの同意率の高さはほぼ100%と圧倒的な差です。これに対して、日本でのそもそもの意思表示率はあまりに低いと言えます。
同意率が高くなるか低くなるかは「選択設計」次第
それにしても、同じヨーロッパの国々の間でも、これほどの差が生まれるのはなぜでしょう?
日本では運転免許証や健康保険証の裏面にある意思表示欄に、あなたの意思を記入することなどで、「意思を表示した」と判断されます。したがって、何らかしらの方法で意思が表示されないと、同意は成立しません。
このように、同意したい場合に意思表示を必要とする選択肢の設計の仕方をオプト・イン方式と言います。
実は、オランダ、イギリス、ドイツ、日本、デンマーク(【図表】の左側5ヵ国)はこの方式を採用していました。
反対に、オーストリア、ハンガリー、フランス、ポルトガル、ポーランド、ベルギー、スウェーデン(【図表】の右側7ヵ国)ではオプト・アウト方式を採用していました。
オプト・アウト方式では、“同意したくない”場合に意思表示欄に意思表示が必要とされます。記入がない場合はあえて反対していないということで、「同意した」と推定されるわけです。実質的同意率の国ごとの差は、こうした方式の差によって生まれたと考えられています。
このように、意思の表示の仕方という選択の設計を工夫することでも、ナッジは行なわれます。
初期設定が違っただけで人の判断が変わるわけですから、特別な費用をかける必要もないわけです(なお、イギリスとオランダはその後の法改正でオプト・アウト方式を取り入れました)。
最後に、推定同意という方式を、なんだか数字のマジックのように思われる人もいるかもしれません。
ただ、仮に同意したくなければ同意しないと表示すればいい話なので、当人の自由意志を阻害してはいないでしょう。
どちらでもいいのであれば、みんなの都合に合わせてよ──。割と世間で受け入れられる論調でしょうか?
どこまでナッジしていいのか?
さて、臓器提供の同意率は、「オプト・アウトという方式を導入することで高められていたのではないか」というお話をしました。
こうしたナッジを、非合理性を手玉に取った手法のように感じている人もいるかもしれません。
ナッジに対する批判のひとつに、社会全体のためだからといって「人の意思決定に都合よく介入してもいいのか」というものがあります。
もちろん、何にも影響を受けない“自由な意思”というものが、どの程度存在しているかもわかりません。
ただ個人的には、ナッジを活用する場合、単に政策などの目的・目標に固執せず、人の非合理性につけ込み過ぎていないか入念に検討していただきたいと思います。
太宰 北斗
名古屋商科大学 商学部 准教授
慶應義塾大学卒業後、消費財メーカー勤務を経て、一橋大学大学院商学研究科博士後期課程修了。一橋大学大学院商学研究科特任講師を経て現職。専門は行動ファイナンス、コーポレートガバナンス。
第3回アサヒビール最優秀論文賞受賞。論文「競馬とプロスペクト理論:微小確率の過大評価の実証分析」により行動経済学会より表彰を受ける。
競馬や宝くじ、スポーツなど身近なトピックを交えたり、行動経済学で使われる実験を利用した投資ゲームなどを行ない、多くの学生が関心を持って取り組めるように心がけた授業を行う。