当事者の主観ではなく裁判所の客観で該当可否が決まる
東京大学の水町勇一郎教授は、過去の裁判例を次のとおり整理している。
業務上の指導にかかわる言動については、ⓐ正当な業務上の必要性に基づいてなされたものであるか、ⓑ業務上の必要性に基づくものであったとしても相手方の人格(その職業的キャリア、企業内での立場、人間としての存在など)に配慮しそれを必要以上に抑圧するものでなかったかという観点から、社会通念上許容される範囲の指導か(それを超える違法な言動か)が判断されるものと解される。したがって、例えば上司による部下への指導が業務上の必要性に基づくものであったとしても、相手方の人格を否定するような嫌悪の感情と威圧的な態様でなされたものである場合には、不法行為が成立しうる。
(水町勇一郎著『詳解 労働法』(東京大学出版会・2021年・第2版)285頁)
ここで注意すべきなのは、パワハラに該当するかどうかはあくまで客観的な評価の問題であり、当事者の主観のみで左右されるものではないという点である。
パワハラの定義「部下が不快に感じたら」は誤解
ハラスメントの該当性について、次のような説明を見かけることがある。
「ハラスメントというのは、行為者がどう思っていたかではなく、相手が不快に思ったかどうかで決まる」
「行為者の意図にかかわらず、相手が不快な気持ちになればハラスメントは成立する」
このような説明は不正確である。不正確なばかりか、パワハラの定義を曖昧にしてしまうという意味で有害ですらある。
人は皆それぞれ個性があり、快・不快の基準は人によって異なる。
たとえば、職場で他の従業員に対し、「今度選挙があるから、投票に行かないとね」と言ったとする。「まぁそうだよね」と思う人もいれば、そのような話題を出されること自体を不快に感じる人も中なかにはいるかもしれない。
だからといって、その発言自体がハラスメントと評価されることは絶対にありえない。
「私が不快に感じたのだから、あなたの行為はハラスメントだ」というのは、一般的な定義には成り得ない。それはパワハラ加害者の発想である。
もちろん上記の説明をする人たちに、こうした意図はなく、セクハラに関しては、そのような説明も一面では的を射ている。
しかし、「パワハラという概念は、上司の指導に対して部下が不快に感じたかどうかで判断するもの」と誤解する人も出てくるだろう。
このような誤解をしてしまった場合、部下に対する対応の傾向は2つに分かれる。①必要以上に委縮して部下の指導に支障が生じるか、②「パワハラ」という概念自体くだらないものとして無視するようになるか。いずれにせよ、望ましい方向とはいえない。
人と人がコミュニケーションをとる以上、相手を不快にする可能性はゼロにはならない。不快な思いを一切したくないのであれば、そのサービスに見合った対価を支払うべきである。お金をもらって働く以上、一定程度の不快は受け入れざるを得ない。
ハラスメントが許されないのは、それが不快だからではない。相手に対する加害行為であり、他人の心身と、人としての尊厳を破壊する行為だからである。
ハラスメントの定義は一言で表せる。それは、他者の人格的尊厳を侵害することだ。