(※写真はイメージです/PIXTA)

敗戦後、焼け野原となった日本が奇跡的な復興を遂げ、すさまじい勢いで経済発展を遂げたのはよく知られているところです。その後、バブル経済からバブル崩壊を経て、長い景気低迷に入り、いまなお苦しい状況が続いています。それら一連の流れについて、経済評論家の塚崎公義氏が平易に解説します。

戦後日本経済は、バブル前後で大きく二つに分けられる

1945年に戦争が終わってから77年が経ちますが、この間の日本経済を振り返ると、バブルが崩壊した1990年頃を界として、大きく二つの時代に分かれていることがわかります。戦後の焼け跡から経済が順調に成長して世界一の経済だといわれるようになった前半と、失われた30年とも呼ばれる長期低迷期です。

 

前半は、戦後の復興期、高度成長期、安定成長期の3つに分けられますが、安定成長期の最後はバブルなので、別に考えたほうがよいでしょう。

 

後半は、バブルの後遺症に苦しんだ10年ほどと、その後の需要不足に苦しんだ20年強に分けて考えるとよいでしょう。

戦後の焼け野原から「10年で復興」

戦争で日本中が焼け野原になり、そこから人々がバラック建ての家を建て、海外に住んでいた人や海外で戦っていた兵士等が帰国し、地方に疎開していた人々が都会に戻ったわけですから、さぞかし大変だったでしょう。

 

しかし、食料が何とか手に入るようになり、焼けた工場が再建され、経済が戦前のレベルを回復するのに、10年しか要しませんでした。

 

あれだけの焼け野原から比較的早く経済が復興できた一因は、米国の占領政策が厳しくなく、むしろ食料援助なども行われたことでしょう。無条件降伏したわけですから、どれだけ賠償金を請求されても仕方なかったということを考えると、これは大変の幸運なことだったと思います。

 

もうひとつ、日本人が戦前から高いレベルの教育を受けていたことも重要かもしれません。家や工場は焼けてしまっても、高い教育を受けた優秀な人材が残っていれば、大いに復興に寄与するはずですから。

生活が格段に豊かになった「高度成長期」

高度成長期は、1955年頃(復興が一応成し遂げられた頃)から1973年の石油ショックまで続きました。新しい工場が大量に建ち、工業の生産量が飛躍的に伸び、年平均で10%近い経済成長率が長期間続いたのです。

 

経済が成長するためには、需要と供給がバランスよく伸びる必要がありますが、当時は需要も供給も急激に増加したのです。

 

新しい工場が建ち、人手で作っていたものを機械が作るようになったので、労働者の数の増え方よりも生産量の増え方のほうがはるかに多く、供給が急激に増えていました。

 

新しい工場が大量の労働者を必要としたので、労働力不足となり、労働者の奪い合いから賃金が急激に上がっていました。そこで、労働者たちは収入を得てテレビや洗濯機や冷蔵庫などを買えたのです。

 

いまに残る影響としては、もちろん日本が豊かになったことが最大ですが、農村から都会への人口大移動の影響も重要です。トラクターの導入で農家の労働力が余り、農家の子どもたちが都会に出てきて工場で働き、都会で結婚したのです。

量から質への転換の時代となった「安定成長期」

1973年の石油ショックがもたらしたインフレを抑制するため、厳しい引き締めが行われました。それを契機として高度成長期が終わり、そのあとは、安定成長期が続きましたが、それでも年平均5%近い成長でしたから、いまとは比べ物になりませんね。

 

安定成長期と高度成長期の違いとしては、生産量の増加から品質向上に企業の重点が変化したことが重要です。その結果、1980年代後半の円高期に、「円高なので日本製品は値上がりしたけれども、品質がいいので買いたい」という外国人が多く、日本製品の輸出があまり減りませんでした。

 

輸出激減に怯えていた日本人は、これに驚いて、「日本経済は凄い」と感じたわけですが、それが「日本経済は世界一だ」という驕りにつながってバブルの源となったのは残念なことでした。

 

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