(※写真はイメージです/PIXTA)

急激なドル高円安相場が続いています。日銀が安定化を図るべく介入しているとの話もあり、関係者は固唾を呑んで見守っている状況です。さて、米ドル価格ですが、戦後1ドル360円の固定相場制から変動相場制になり、以降は様々な事象に影響を受けて変化しています。これまでの米ドルの価格推移をふりかえるとともに、今回のドル高円安の背景を探ります。経済評論家の塚崎公義氏が平易に解説します。

戦後は「1ドル=360円」の固定相場だった

為替レートというのは、本来「通貨と通貨の交換比率」のことなのですが、米ドルの値段のことを指す場合が多くあります。今回は、米ドル(以下、ドルと記す)の値段の推移を振り返ることにします。

 

戦後は、1ドル360円の固定相場でした。法律でドルの値段が決まっていたので、毎日ニュースを見る必要がなかったわけですね。

 

立法者が1ドルを360円と決めたということは、日本と米国の物価が同じになるのは1ドルが360円のときだと考えたからでしょう。為替レートを考える際に最も重要なのは「日本と米国の物価が同じになるようにドルの値段が決まるべきだ」ということです。

 

日本でシャツが360円、米国でシャツが1ドルで売っているときに、1ドルは1円だという法律ができたら大変です。日本人が銀行でドルを買って米国までシャツを買いに行くでしょうから、日本のシャツがまったく売れなくなってしまいますし、銀行が持っているドルが売り切れてしまうでしょう。そうならないためには「1ドル=360円」と決める必要があった、というわけですね。

「固定相場性は、もうやめて」米国政府からの要求

しかし、固定相場制は1973年に終わります。日本製品が米国製品より安くなり、日本からのシャツの輸出が増えて米国のシャツ会社が困り、米国政府が日本政府に固定相場性をやめるように要求してきたからです。

 

米国では、戦争中から立派な機械でシャツを作っていましたから、シャツの値段は1ドルのまま一定でした。一方で、日本では戦後の焼け野原でシャツを手縫いしていたときに360円かかっていたコストが、ミシンが導入され、さらに立派な機械が導入されると、安く作れるようになっていったのです。

 

そこで、日本政府は固定相場制の法律を廃止し、ドルの値段も一般の物価と同じように需要と供給で決まる(買い注文と売り注文の量が同じになるように決まる)という制度に変更したのです。

 

これは、毎日ドルの値段を調べなければならない面倒はありますが、米国の大統領にとっては便利な制度でした。日本企業が立派な機械を導入してシャツを安く作れるようになると、日本から米国へのシャツの輸出が増えますが、そうなると日本のシャツ会社が米国から持ち帰ったドルを銀行に売りに行くので、ドルの値段が下がります。

 

したがって、日本から米国へのシャツの輸出が増え続けることはなく、米国のシャツ会社もそれほど困らずにすむ、というわけです。

 

日本は、高度成長期や安定成長期に多くの工場を建て、よい製品を安く作れるようになっていきましたから、米国向けの輸出が増え、それにつれてドルの値段は次第に安くなっていきました。1995年には1ドルが80円になったのです。

 

そのあいだ、ドルの値段は大きな方向としては下がっていきましたが、上がる時期もあり、大きく下がる時期もありました。とくに注目すべきは、1985年にプラザ合意という会議があり、その後の3年間でドルの値段が半分になる、という大きなできごとです。

 

プラザ合意後の急激な円高は、日本経済に大きな変化をもたらしました。ひとつには、海外からの製品の輸入が増えるようになったことですが、もうひとつにはバブルが発生したことです。バブルについては、別の機会に詳述しましょう。

 

次ページ1995年を境に消滅した、ドル安円高の大きな流れ

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