創業239年におよぶ「紙の専門商社」、中庄株式会社
中庄は紙の専門商社である。創業は1783年(天明3)、歴史は239年にもおよぶが、「紙の専門商社」と聞いても、どのような仕事をしているのか、多くの人は想像がつかないのではないか。
紙業界には、大きく分けて「製紙会社」、一次問屋である「代理店」、二次問屋の「卸商」という3業態がある。
中庄は、トイレットペーパーやティッシュペーパーなどの「家庭紙」については製紙会社と直接契約を結ぶ代理店であり、出版物や印刷物に使われる「洋紙」については、代理店から仕入れて出版社などに販売する卸商という立ち位置だ。
家庭紙の場合は、中庄が製紙会社から仕入れ、ドラッグストアやスーパーに卸している。一方、出版物に使われる洋紙の場合、中庄は、製紙会社と契約している代理店から仕入れ、出版社に販売する。販売した紙を印刷業務を請け負っている印刷会社へ納品する。
トイレットペーパーやティッシュペーパーから書籍、雑誌、包装紙に至るまで、私たちの生活は「紙」と切っても切り離せない。そんな紙を専門的に扱っている商社が、中庄という会社なのだ。
長男のために出奔した“三男坊”、江戸で「紙屋」になる
まずその歴史から紐解くと、初代・中村庄八が国元を出奔(しゅっぽん)したことに端を発する。
越後国蒲原群柏崎(現在の新潟県柏崎市)で小間物屋を営んでいた中村市之助には3人の息子がいた。この三男坊が庄八だ。
市之助亡き後、後妻は我が子・庄八に後を継がせたいと考えた。しかし庄八は、母の考えが長男との間に禍根を残すと反発。黙って実家を出るに至った。21~22歳のころと推察される。
こうして国元を出た庄八は江戸に辿り着いた。道中で有り金はすでに使い果たしており、元手がなくては商売を始めることもできない。しばらくは周囲の親切な人たちに世話してもらった日雇い仕事で糊口をしのぎつつ、翌年(23歳のころ)、堀江町(現在の日本橋小舟町)で和紙や竹製品を扱う商家・伊場屋勘兵衛の奉公人となる。
ちなみに庄八を雇った伊場屋勘兵衛は、徳川家康の江戸幕府開府と同時に、浜松から江戸に進出した商人だ。伊場屋は家康の御用商人となるなど江戸で大きな成功を収め、実は現在も同じ日本橋小舟町、かつて商家があった場所からほど近いところで屋号「伊場仙」として江戸前扇子などを販売している。
さて、伊場屋に職を得た庄八は少しずつ貯えを増やし、約7年後の1783年(天明3)、馬喰(ばくろ)町で独立する。
当時の馬喰町は、物を仕入れに来る商人や、江戸見物やお伊勢参りに向かう観光客など、日本各地から集まった人々が休憩したり、宿泊したりする場所だった。
また馬喰町には、現代でいう地方裁判所のような「郡代(ぐんだい)屋敷」があった。その周辺の宿は「旅人宿」「公事宿」などと呼ばれており、宿の主人は訴状作成や裁判の代理出席など、宿泊客の訴訟を補佐するという公的な役割も担っていた。
当時、馬喰町には紙屋五郎兵衛(ごろべえ)という紙商があり、江戸土産を求める人々や訴状に使う紙「公事用紙」を求める宿の使用人で、常に大賑わいだったという。伊場屋で奉公すること約7年、自分で商いを始める元手を貯えた庄八は、この繁盛店を居抜きで買い受け、「紙屋庄八」の屋号で商いを始めた。これが現在に至る中庄の発祥である。