「実の長男がいても、後継ぎにはしない」という家訓
国元を出てから足掛け約8年、ようやく自分の店を持った庄八は、代替わりについて、ある家憲を定めていた。それは「たとえ嫡男があっても後を継がせない」、つまり実の長男には後を継がせず、他家から優秀な養子をとって後継ぎとするというものだ。
養子縁組自体は、当時の武家や商家では珍しいことではなかった。嫡男がない場合、あるいは嫡男が不出来だった場合に養子を迎えるわけだが、中庄の初代は「たとえ嫡男があっても後を継がせない」と明確に定めたのである。以降、6代目までは養子継承が続いた。
嫡男があれば、後継者候補の筆頭は、やはり嫡男になる。しかし万が一、事業を継いだ嫡男が商いに不得手だった場合に、一家は存続の危機にさらされる。商売が傾いてしまっては奉公人に対する責任も果たしきれない。そのリスクをあらかじめ除外するために、外から優秀な人材を迎え入れ、後継者に育て上げると最初から決めておいたのだ。
というわけで2代目は初代の実子ではない。2代目・庄八を襲名した人物は、もとは向島の農家の出身で、本所の材木問屋に奉公に出ていたところを初代に認められて中村家の婿養子となった。
2代目については、こんなエピソードが伝わっている。
あるとき実父が重い病にかかったとの知らせが入ったが、奉公先を取り仕切っていた人物が気難しく、暇乞いの許しが出なかった。仕方がないので、看病のために毎晩、約6キロの道のりを歩いて向島の実家に帰り、明け方に本所の奉公先に戻ることにした。
隅田川沿いを歩く道中、神社があるあたりに差し掛かると、土手に降りて川の水を浴び、父の快復を神に祈った。懸命な看病の甲斐あって、1週間もたたないうちに父の病気はすっかりよくなったという。
どこから聞き及んだものか、そんな親への孝行心と奉公先への忠義心に胸を打たれた初代が、ぜひ後継者に、と見込んだのだ。その目に狂いはなかった。聡明で商才があり、かつ情にも厚かった2代目は初代と協力し、商いの拡大に大いに貢献したという。
以降、中村家では代々、他家から迎えられた養子が「庄八」を襲名し、後を継いできた。
4代目庄八は、浅草新堀端永久町(現在の蔵前)に生まれ、11歳のときに横山町の糸問屋に奉公に出た。そして、14歳のときに髪結いの世話で紙屋庄八3代目主人に仕え、奉公しながら暇を惜しんでは勉強した逸材である。33歳のときに相続の話を承諾し36歳のときに4代目庄八を襲名した。
嫡男には後を継がせないという初代からの家訓が守られてきたなかで、この家訓や店のしきたりなどを文書としてまとめたのが、4代目庄八である。4代目庄八は、奉公人が守るべき日常の心構えや商取引上の心得、勤務規則などを35か条にわたり制定した「御定目」1864年(文久4)、さらに、後世への家訓として主人が毎日守るべき心得を定めた「永代日用記録」1870年(明治3)、先祖の由来を記す「永代之亀鑑」1871年(明治4)を取りまとめた。
中村家に代々大切に継承されてきた教えを可視化して後世に伝え、商売上の心得を明確に家訓として定めた功績は大きく、その後の店の存続もこの教えによるところが非常に大きいという。なお、この文書3冊は中央区の指定文化財にもなっている。