不治の病、ALSに罹り余命1年未満となった妻。つきつけられた現実に抗いつづけるなかで見えてきた本当に大切なものとは。妻の死を期してもなおつむぎ続けられる夫婦の闘病記。

作業療法士から声をかけられ…

それは思ってもみない出来事だった。

 

「今日二時半頃までおられますか?」

 

いつものように、少量の嚥下食と胃瘻(いろう)からのミルクの注入も終わった病室で、突然声をかけられた。

 

同室の患者の容態は個々に違っていても、身体の不自由な者ばかりの六人部屋のため、患者の車椅子での出入りを考えてか、病室のドアは常に開け放たれていた。ベッドはカーテンで仕切られていて、それも半開きの状態が多く、病室はいつもざわめきの中にあった。振り向くと、いつの間にか、顔なじみの作業療法士がカーテンのこちら側に入って来ていた。

 

「私がいた方がいいのであれば」

 

突然のことで、何のことか分からず、少し戸惑いぎみに返事をした。

 

「車椅子で移動する練習です」

 

作業療法士は、仕事が立て込んでいるのか、そっけない答え方で出て行った。一カ月前京子は、生命維持装置を装着するための気管切開の手術をした。予想した以上に気管支に弾力がなく、「急遽、男性用の太いカニューレ(気道確保のための管)を使用せざるを得なかった」と、医師の説明を受けた後、看護師に案内されるまま術後控室に入った。

 

事前の簡単な説明とは違い、私の面会の後、一晩、ICU室に移して様子を見るとのことだった。

 

ホースでカニューレに空気を送る「スコン、スコン」という音が、白い布の下に横たわっている物体と一体化していた。無造作に被せられ、盛り上がった白布の端には血の気を失った人の顔があり、それが京子だと気付いた私は、いたたまれないほど狼狽した。白い布は京子が着ている手術着だったのだ。

 

無機質で透明な筒状のカニューレが、京子の喉元に刃物のように突き刺さり、人工呼吸器から押し出される空気の蛇腹のホースへと繋がっていた。外見上の痛々しさを和らげるためか、喉元はガーゼで手当てされており、固まりきらない生々しい血糊が滲んでいる状態だった。

 

事前の説明で予想していたこととはいえ、呼気(吐く息)が声帯まで上がって来ないので、声を発することができない。

 

私は持って生まれた内面的な不器用さからくるのか、いつもいざという時に判断が遅れる。慌てて用意していた五十音字表をかざしたが、もういいということなのか、それとも伝える気力さえ残っていなかったのか、京子は目を開けて私を確認したはずなのに、再びその目は閉じられた。

次ページそれからすでに1ヵ月が経ち…

本記事は、2021年7月刊行の書籍『ALS―天国への寄り道―』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。最新の法令等には対応していない場合がございますので、あらかじめご了承ください。

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