(※写真はイメージです/PIXTA)

日本は100年以上の業歴を有する老舗企業が3万社を超え、世界に類を見ない「企業長寿大国」です。戦争、大震災、大不況…歴史上稀にみる深刻な経済危機に見舞われてもびくともしなかった老舗にはワケがあります。ジャーナリストの清丸惠三郎氏がレポートします。

自社ブランド「宮の雪」にこだわった

■「正統派の異端でいきます」

 

ディープな下町、つまり東京墨田区、江東区、葛飾区、荒川区などだが、この地区に多い大衆居酒屋で、「キンミヤ」という名の甲類焼酎が大変な人気である。甲類焼酎は単式蒸留のイモ焼酎など乙類と異なり、連続式蒸留による無色無臭の純度の高いアルコールである。大量生産が可能なため、乙類に比べ価格も比較的安い。

 

そのキンミヤ焼酎、正確には「亀甲宮焼酎」と呼ぶのだが、製造元の宮﨑本店も下津醤油の近傍、清流鈴鹿川の伏流水に恵まれた四日市市楠町に本社工場を置き、創業が1846(弘化3)年という老舗酒造会社である。江戸期、「灘の酒、楠の焼酎」と併称されるほど、この地区は焼酎製造の知られた産地だったという。

盛時30を超える焼酎蔵が軒を連ねていたそうだが、現在は宮﨑本店のみ。ただし戦後、宝焼酎が立地条件のよさがあってだろう、近隣に工場を新設して今に至っている。

 

宮﨑本店が楠地区の地場焼酎蔵、酒造業者として唯一生き残ったのには、理由がある。宮﨑本店六代目で、現会長の宮﨑由至氏は以下のようにいくつかの要因を語る。

 

一つは時代がいささかさかのぼるが、1923(大正12)年9月に起きた関東大震災時、「当社が所有していた焼酎運搬船に様々な救援物資を積み込み、下町の取引先などへ送り届けた」のだという。これが東京下町に「キンミヤ焼酎」のフアンを増やす大きな一因となった。

 

それに先立ち、年商の3倍の資金を投じてドイツから最新式の連続式蒸留器を導入、純度の高い高品質のアルコール製造に成功したことも大きい。

 

戦後、原料統制によりアルコール製造が苦境に陥った折には、技術者だった宮﨑氏の父親は、統制の対象外だったソテツの実を奄美大島から仕入れ、苦心の末アルコール製造に成功した。「二つの技術革新への挑戦が、うちの商売に繁栄をもたらし、この地区で唯一生き残ることを可能にしたのです」と宮﨑氏は語る。

 

だがそれも長く続かなかった。宮﨑本家は焼酎のほかに清酒の製造も行っていたが、地方の多くの中小の酒蔵のように灘や伏見の大手に桶売り、その名の通り桶ごと売ってしまう甘い商いを拒絶していた。あくまでも自社ブランド「宮の雪」にこだわったのだ。

 

しかし地元の四日市市内でさえ大手の銘柄に押されて売れず、70年代に入ると清酒事業は苦境に立たされた。慶應義塾大学卒業後、大手醤油メーカーで経験を積んだ宮﨑氏が家業を継ぐべく帰ってきたのはそのころのこと。入社後、営業を担当、専務を経て87年に社長に就任している。

 

この間、同友会に入会、84年には三重同友会の代表理事に就任する。このとき、岐阜同友会に挨拶に行き、衝撃の出会いをする。今や伝説の名経営者となった、未来工業の山田昭男氏に直截にこう告げられたというのである。

 

「日本酒業界は、7割から7割5分が赤字かせいぜい50万円以下の利益しか出せていない会社ばかり。そこでいい奴だと言われるようなら、あんたもその仲間入りだ。とんでもない奴がいるぞと言われるようになったら、褒めてあげるよ」

 

そうした業界環境の中で、甘えず、馴れずにやれとの山田氏一流の激励だった。対して宮﨑氏は「私は正統派の異端でいきます」と答えたという。これがその後の宮﨑氏の経営の背骨となる。同友会内では、兵庫同友会の田中信吾日本ジャバラ代表取締役などと並び、まさに「正統派の異端」視され、いまでは全国の同友会からその直言を聞こうと次々と声がかかっている。

 

次ページ老舗は「革新の連続」こそ求められる

※本連載は、清丸惠三郎氏の著書『「小さな会社の「最強経営」』(プレジデント社、2019年10月刊)より一部を抜粋・再編集したものです。肩書等は掲載時のまま。

小さな会社の「最強経営」

小さな会社の「最強経営」

清丸 惠三郎

プレジデント社

4万6千人を超える中小企業の経営者で構成される中小企業家同友会。 南は沖縄から北は北海道まで全国津々浦々に支部を持ち、未来工業、サイゼリヤ、やずや、など多くのユニークな企業を輩出し、いまなお会員数を増やし続けて…

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