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そもそも「意思能力」とは?
認知症と相続の問題は世間でも度々取り沙汰されるテーマです。内閣府の推計(平成29年版高齢社会白書)によれば、認知症患者は年々増加し、2025年には65歳以上の5人1人が認知症になると予測されています。
実際に、相続に関する仕事を行っていると身内やお客様等から認知症にまつわる質問や相談を受けることはとても多いですが、そこには税務や法務の様々なリスクが存在するため、専門家として正しい知識や適切な対応力を備えておくことの大切さを実感しています。
まず、そもそもなぜ認知症にまつわるリスクが取り沙汰されるのかは、以下の規定が端を発します。
(民法第3条の2)
法律行為の当事者が意思表示をした時に意思能力を有しなかったときは、その法律行為は、無効とする。
相続に関するあらゆる生前対策や遺産分割等はすべてが法律行為(契約など)であるため意思能力が必須です。しかしながら、言うまでもなく認知症になると意思能力の有無について疑問が生じるため、対策等を行ってもそれが無効になってしまうリスクがあるのです。
では、意思能力とは何でしょうか。
通説では、「自分が行った行為の結果を正しく認識し、これに基づいて正しい意思決定を行うことができる精神能力」とされていますが、法律でその定義が明文化されているものではありません。
また、行為の種類によって求められる意思能力の程度が変わるという説が有力となっていることや、認知症といってもその原因(アルツハイマー型認知症・血管性認知症など)・症状・重症度がまちまちであり、結局のところ意思能力が問題となった場合には、裁判例などを参考に個別・具体的に検討するしかないのが実情で、そのことが当事者や専門家による判断を難しくしているのです。
認知症に伴い「行えなくなるリスクがある」相続対策
1.遺言書の作成
子供もがいない夫婦や遺産分割でもめる可能性が高い等、遺言書を作成することが強く推奨されるケースはいくつかありますが、遺言書を作成するためには遺言能力が必要*1です。通説では遺言能力と意思能力は同義とされています。
*1:(民法第963条)
遺言者は、遺言をするときにおいてその能力を有しなければならない。
遺言書については、その有効性をめぐって多くの裁判例が存在しますが、裁判では以下のような点が判断基準となっているようです。
①遺言者の心身の状況
症状や程度について医師の診断等から客観的に作成時の状況を把握することができるかどうかです。
程度を測る手段として裁判でも多く活用されているのが「改定長谷川式簡易知能評価スケール(HDS-R)」です。これは、記憶を中心とした認知機能障害を大まかに確認するテストで、30点満点中、20点以下の場合には認知症の疑いがあるとされます。裁判ではこの点数が1桁の場合には遺言能力が否定されるケースが特に多いようです。
なお、このテストの結果は他にも生前贈与や養子縁組の有効性をめぐる裁判でも活用されていますので、あらゆる対策の実行可否についても重要な判断材料となりそうです。
②遺言内容が単純か複雑か
遺言書もその内容によって求められる遺言能力の程度は異なるとされています。
たとえば、「すべての財産を長男・甲に相続させる」という遺言と「不動産Aは長男・甲に相続させ、不動産Bは二男・乙に相続させ、預貯金は……」という遺言とでは求められる遺言能力に差があり、前者では高度な遺言能力は要しないとされます。
実際の判例でも、認知症の症状は見られるものの単純な遺言内容(すべて一人に相続させる)なので(③のようなその他事情も考慮し)有効とされたケースがあります。
③遺言内容に合理性があるかどうか
たとえば、遺言者と同居し介護も行って、心身面や経済面でも遺言者の支えとなっていた家族がいた場合において、感謝の念からその家族にすべての財産を相続させる旨の遺言書を残したとすれば、それには明確な動機が窺えますので客観的合理性があると考えられます。
しかし、たびたび遺言書の書き換えを行って、その内容もコロコロと変わるような一貫性のない状況下で作成された遺言書である場合等には合理性の有無が疑問視されます。
以上のことも踏まえ、遺言書を作成するにあたって、作成時における意思能力に不安要素があり、かつ、遺言書の内容に不服を感じかねない相続人からの無効の提起がされる可能性がある場合には、医師の診断等で作成時の意思能力に問題がないことの証拠を備えておくことや、自筆証書ではなく公正証書*2による遺言書を作成することが望ましいと思われます(もちろん、認知症になる前の早め準備がベストです)。
*2:作成にあたって公証人が遺言者の意思確認を行った上、有効性に問題がないという心証を得ないと作成できないためです。公正証書でも無効とされた判例もあるため不確実性もないわけではありませんが、自筆証書に比べれば明らかにリスクは軽減されます。
2.生前贈与
贈与税の基礎控除額(110万円)以下の金額などを複数の親族へ贈与することで将来の相続財産を圧縮することは相続税対策の最も王道たる手段です。
注目されていた相続税贈与税一体化への改正は令和4年度税制改正大綱には盛り込まれませんでしたので、ひとまず今年以降も有効な方策として存続することとなっています。
贈与は、「当事者の一方がある財産を無償で相手方に与える意思を表示し、相手方が受諾することによって、その効力を生ずる」法律行為(契約)です。(民法第549条)
したがって、当事者の片方でも意思能力がない場合には成立し得ないものとなります。
不動産の贈与であれば、所有権移転登記にあたって基本的には司法書士による意思能力の確認があるため、そのことが贈与事実の担保となって、意思能力が疑わしい状況下で実行されるケースは少ないと思われます。
しかし、現金等の贈与の場合には実行にあたって第三者による意思確認等の障壁がないこともあり、贈与の都度意思能力の確認や合意の事実に関する裏付けが取られていないことも多いです。
税務上のリスクとして、認知症になった後に行われた贈与が相続税の税務調査において税務署により無効と判断された場合には贈与された金額は相続税の対象となります。
もし贈与税の申告納税がされていた場合には、申告期限から6年間は還付してもらえますが、その期間を過ぎていると相続税課税がされてしまうだけでなく贈与税が戻ってこない(判決により無効となった場合には判決確定から2ヵ月以内の還付請求は可能)という憂き目にあいますので注意が必要です。
もっとも、改定長谷川式簡易知能評価スケールの結果や病院、施設等への裏付調査により贈与当時における意思能力を否定する材料がないといけませんので、軽度の認知症の状態で行った贈与などを無効と断定することは難しいと思われます。
基本的に認知症と診断された後の贈与はできれば控えた方が良いと考えます。
症状(かなり軽い場合)や家族構成・関係性等にもよりますが、もし行うのであれば、後日贈与の有効性について疑われないような備え(医師の診断、自署捺印の贈与契約書の作成、振込にする等)は必須となるでしょう。
3.不動産の有効活用
現金よりも不動産の方が相続税評価額が低くなりますので、資産の組み換えとして不動産を購入・建築したり、貸したりすることで将来の相続財産の圧縮を図ることは広く知られている節税対策の一つです。
ただし、購入の場合は売買契約やローンを組むなら金銭消費貸借契約、建築の場合は請負契約と、すべてについてしっかりとした意思能力が不可欠な法律行為であり、認知症になると実行することが難しくなります。
施設費用捻出のための自宅売却等であれば認知症になった後でも成年後見制度により成年後見人が売却をすることは可能と思われますが、節税を意識した購入等となると成年被後見人の「被後見人の財産を守る(減らさない)」という目的から逸れますので実行はできないと考えるべきです。(生前贈与も同様です)
そのため認知症になる前の早めの実行や認知症になった場合に備えた家族信託の活用等を検討することが大切です。
4.普通養子縁組
相続税の基礎控除額や生命保険金・退職手当金の非課税枠増加等を目的とした節税対策や法定相続分や遺留分の変動を利用した遺産分割対策として活用されることも多い制度です。
当然ながら法律行為ですので意思能力がないと成立しませんが、届出の提出など簡単な方法により手続きができるため、認知症の診断を受けている中でも実行は可能であり、それにより養子縁組の有効性について争われた裁判も複数存在します。
親族関係の悪化をもたらしかねないため、安易に節税目的で利用することには慎重になるべきだと思いますが、行う場合には、親族からの理解を得ることや生前贈与等と同様に有効性について親族などから物言いが付かないような備えをしておくことが重要です。
5.同族会社の株式関係
同族会社の経営者などは、日常の会社経営のほか、所有する株式についての株価対策や生前贈与、遺言などの事業承継対策に関して複合的かつ計画的に検討・実行しなければならない必要性から、かなり高度な意思能力が求められます。
そのため、経営者が認知症になってしまうことによる弊害は極めて大きいものとなりますので、不動産の有効活用と同様に民事信託の利用も視野に入れつつ認知症になる前の早めの準備がとりわけ重要になると言えます。