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「偏差値」が受験産業を企業の採用に変えた
1970年代、高度経済成長によって大学進学率が急上昇し、「受験戦争」「入試地獄」と呼ばれる社会現象が起こりました。これを是正するために導入されたのが、1979年に始まった共通一次試験です。
この制度は、受験生を超難問奇問から解放し地獄から救済した一方で、新たな課題を生み出しました。「偏差値」です。
偏差値によって全国の大学が分かりやすくランキング化され、東大を頂点とするヒエラルキーが出来上がりました。学部や大学の個性は度外視して「偏差値の高い大学・学部」に合格することが目的化してしまったのです。
偏差値が、中学高校の授業を、家庭の教育を、受験産業を、企業の採用を変えました。偏差値だけが生徒の学力指標であり人の価値の指標であるかのように社会全体が錯覚したのです。
学校は、教科の本質や生徒の興味・適性を脇に置いて、5教科の教科書内容を漏らすことなく生徒の頭に詰め込む――そんな授業を余儀なくされました。そしてそんな学校・社会への子どもたちの反発が、1980年代の少年非行や校内暴力となって顕在化します。
それから共通一次試験はセンター試験へ、そして大学入学共通テストへ、また学習指導要領はゆとり教育へ、そして脱ゆとりへ、そして今回の改訂へと移行してきました。
文科省が打ち出した高大接続改革案は、共通テストにおいては、思考力・判断力・表現力を問う記述式問題の導入、1点刻みの採点からレベル評価への移行、外国語の民間検定試験の活用、複数回受験の可能化など、大学別二次試験においては、主体性や創造力、感性等の非認知能力や意欲等を活動履歴や面接などの多面的・総合的な評価で測るというドラスティックなものでした。
しかし、すべてが廃案・先送り・規模縮小となり、センター試験のマイナーチェンジ版とも言うべき大学入学共通テストに落ち着いてしまったのです。
教師は「みんな仲良く平等に」生徒たちを扱います。「みんな仲良く平等に」を大切な価値と理解して行動するように子どもたちに指導します。ところが、「みんな仲良く平等に」に基づいて生きていることが、入試では評価されません。
そうして進学機会を逸すると、学歴信仰の残る社会では、希望する職業への道が狭くなる可能性が高いのです。
今の日本の教育は、共通一次試験が生み出した課題をまだ引きずっているのです。
「人格形成は家庭の責任。志望校に送り込むのが役目」
こうした「社会・教育の現実」と学校教育における「みんな仲良く平等に」の二律背反、言い換えれば「志望校合格」と「人格形成」、「認知能力」と「非認知能力」の二律背反にアンビバレントな感情を抱きながら、「さぁ、今日も頑張ろう!」と、教師たちは笑顔で教壇に立っています。それを思うと、頭が下がります。
「そんなことより、とりあえず期末テストでいい点数を取らせなきゃ」「とにかく今は部活に専念するだけ、他には何も考えられない」と近視眼的な部分最適に走るほうが楽です。あるいは、「俺は生徒の成績を上げて志望校に送り込む。人格形成は家庭の責任だ」「社会性や道徳心を高めるのが学校の役割。受験の力を付けたければ塾に行けばいい」と、二律背反の一方を切り捨てるほうが楽です。
しかし、この連載の読者は、そのような選択はしません。二律背反に対して、納得解・最適解を目指し続けます。
「人は総である」ゆえに、様々なリソースを持っています。そのリソースの1つに「andの才覚」があります。
「Aを採るかBを採るか」ではなく、「A・B両方を採る」能力です。前回の記事で紹介した教師たちは、「みんな仲良く平等に」を大切にし、「人格形成」「非認知能力」を重視した教育を実践しています。が、「社会・教育の現実」ともしっかり向き合い、「志望校合格」「認知能力」を決しておろそかにしない教育を行っています。
また、「主体的・対話的で深い学び」に取り組まない教師に対しても、批難・否定することなく関わっています。彼らは背反するAとBの物事を「or」ではなく「and」で見て、「A・Bの両方を生かそう」「AすることでBも実現しよう」「AのなかにBを取り入れよう」「A+BでCという新たな価値を生み出そう」としてきたのです。