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優しく微笑む60歳くらいの女性医師…名前を聞いて驚愕
私は、新型コロナウイルスのワクチン接種業務に携わる中、たくさんの思いがけない出会いに恵まれました。とりわけ、恒松由記子先生との出会いに感謝しています。
私が恒松先生に初めてお会いしたのは、ある介護施設の接種会場です。事前に仲間から、「日本の小児がんの臨床と研究をリードしてきた偉大な80歳の先生」がいらっしゃることを耳にしていました。
ただし実際、目の前で優しく微笑んでいる女性が、まさかその恒松先生とは思いもしませんでした。なぜなら、恒松先生は、見た目が60歳くらいだったからです。
しかし、その後、一緒に接種に従事させていただく中で、接種される方や医療チームの仲間との機知に富んだ会話、緊急時の対応などを目にして、恒松先生の、医師として、そして人間としての経験の深さに感銘を受けました。
そんな恒松先生は、こう語ります。
「2021年1月に傘寿を迎え、そろそろ終活をはじめなければ思っておりましたところ、あるクリニックから『新型コロナウイルスのワクチン接種』という仕事が舞い込んできました。これを引き受け、この6月から週4回のペースでワクチン会場に行っています。被接種者は病気を抱えている方が多く、問診には注意深さが必要で結構疲れますが、やりがいを感じます。なにより医師としてまだ世の中のお役に立つことができていることはありがたいし、医師という仕事を選んでよかったと思う今日この頃です」。
日本で初めて「メトトレキサート」を髄注した医師
恒松先生が医師になられたのは1966年。当時のエピソードを次のように語ります。
「バーキットリンパ腫という悪性リンパ腫が白血病化した7歳の男の子が突然、痙攣して苦しみはじめたのです。髄液を調べたら米の研ぎ汁のように濁っていました。当時にしては珍しい中枢神経浸潤でした。図書館で調べていたら、メトトレキサートを脊髄液に髄注するとよくなるという症例報告の文献がありました。ところがその頃、メトトレキサートの液体の製剤は市販されていませんでした。そこで日本レダリーに問い合わせたところ、婦人科の教授が、絨毛がんの治験で使っているかもしれないと教えてくれました」
すると、恒松先生のご主人が属していた婦人科研究室の大型冷蔵庫には、アクチノマイシンと一緒にメトトレキサートの5ミリバイヤルがぎっしり詰まっていたそうです。恒松先生これを2本、教授に内緒で婦人科の助手から分けてもらい、小児科における直属の上司からの許可だけで髄注したとのこと。男の子の痙攣はおさまり、細胞増多もなくなりました。
「日本で初めてメトトレキサートの髄注をやったのが私であることは確実です。その後この患者さんは亡くなりましたが、巨大なリンパ腫の固まりがするすると消えてなくなり、一度は家に帰れるようにもなりました。他の病気ではホルモン剤や強心剤を除いて、薬が確かに効いたという薬剤はありませんでした。この患者への実験的治療は、今日ならば“別のがん種に、別の投与方法で、しかも小児に、治験中の薬剤を投与した”として、病院中が大騒ぎになるところだったでしょう。貴重な経験をさせていただいたと思います」
ところで当時、医療倫理の議論は、どんな状況だったのでしょうか?
実は、医療倫理について世界でリードする米国でも、本格的な教育が始まったのは1970年代です。その変化の大きな契機は、米国史上最悪の臨床研究不正と言われる「タスキギー梅毒実験」。アラバマ州において、米国政府が1932年から40年間にわたって実施した臨床研究で、貧しく、読み書きができない計600人の黒人男性を対象に行われました。
この不正が発覚し、米国政府は、臨床研究全般におよぶ倫理綱領と言える「国家研究法」を制定し、倫理基準の普遍的な3原則である「人格の尊重」「恩恵」「正義」を定めました。この動きによって、後にインフォームドコンセントの確立など、臨床研究の対象者の保護に関する規制が大きく変化し、研究の監視機関である被験者保護局が設置されました。さらに、この不正以降、各大学は倫理教育を開始しました。その後、日本でも同様の動きが始まりました。
恒松先生は、1990年より、旧厚生省の薬事審議会の委員として、申請されてくる抗悪性腫瘍剤の審査をされました。当時、「自分が未承認薬を無謀かつ実験的に使用したことを思い出していた」と語ります。
小児医療が「親と医師の間だけ」で進められる弊害
小児科を選んだ理由として、恒松先生は「小児は生まれてから日が浅いので、きっと病気の原因は成人より純粋で、治療も単純だろうと思いました。でも本当をいうと、インターン時代に『大人の患者さんは自分より人生経験が長く、深刻な病気を抱えていればなおさら深く考えているから、きっと言語では太刀打ちできないだろう。子どもなら自分より若いし言葉も喋れないから、大人より楽だろうと思った』ということのほうが大きいかもしれません」と語ります。
「ただし実際は、大人より楽とは言えませんでした。子どもの周りには大人がたくさんついてくるから。子どもが死と隣り合わせの病気に罹ったことを知った親は、誰しも『今まで生きてきた中でも最大級』と表現するほどの強い衝撃を受けます。アイデンティティーが揺さぶられて心の縦糸が切れてしまい、どうすべきか考えられなくなり、頭の中が真っ白になるのです」
子どものがんは治療によく反応するため、日本でも、1980年代から急速に治癒する症例が増えてきました。そうなってくると小児がんは治癒したあとの生涯のほうが長いので、QOLを高めることが重要な課題となります。
そのとき恒松先生は「わが国におけるほとんどの小児医療はまだ、子の替わりになってついてきた大人と小児科医の間だけでなされていることが多いのです。そのため、生存を勝ち取った小児がん患者が外来治療を受けるときに、自分自身の病気や治療に対する知識が少ないせいでいたずらに晩期障害を恐れたり、自分は不妊だと思い込んだりします。真に子ども中心の医療はまだまだ実現されていません」と指摘します。
そんな中、1985年ヒューストンで、アメリカ臨床がん学会(ASCO)で開かれる小児がんのLate Effects Study Group(LESG〔晩期障害研究グループ〕)の会議に参加し、「がんの治療が後になって子どもの心と体に及ぼす影響」を考える国際研究グループの、国際的リーダーLESGのアンナ・メドウズ医師にお会いしたそうです。
その当時、恒松先生は、厚生省がん研究助成金による研究「多重がんの要因」の渡辺班において、日本の子どもの二次がん登録をはじめ、疫学調査をされていました。
「小児患者に病気を告知するべき」と実感した瞬間
メドウズ医師は、恒松先生に「まだ、あなたは患者に病名を教えてないの?」と聞いたそうです。そして恒松先生が「あなたのお国と違って、日本では、患者に直接告知することは習慣的に行われていないのです。ですから治療によって後から出てくる問題について、患者に知られないように調査するのは容易なことではありません。やはり知らせるべきなのでしょうか?」と質問すると、メドウズ医師はきっぱりと「もちろん、直接子どもに話すべきです。どんなに小さな子どもにでも。あなたが、今日からでもはじめなさい」と答えました。しかし恒松先生は、それから5年間(85年から89年まで)、毎日「今日こそ私は…」と思いながら、言えなかったそうです。
恒松先生が「まだです。どうしても言えないのです」と打ち明けると、メドウズ医師は一人の患者を残して、「何でもこの子に聞いていいからね」と立ち去っていきました。
恒松先生はおそるおそる、どこにでもいそうなティーンエージャーの患者さんに「あなたは何歳? 何でここに来てるの?」と尋ねました。
すると「あたし? 14歳よ。急性リンパ性白血病で1年前に再発したの。今は自宅治療中よ。中枢神経にも再発していて、これから先生にルンバール(腰椎穿刺)でメトトレキサートを髄注してもらうの」とすらすら答えたそうです。
それを聞いて、「アメリカの子どもがこんなに自分の病気のことをわかっているのに、日本の子どもが理解できないはずがない」と思ったとのこと。こうして、恒松先生は日本でも、晩期障害と告知の問題を改革されました。
新型コロナウイルスのワクチン接種会場には、かつて恒松先生よりがん治療を受けた患者さんもいらっしゃいました。まさか、恒松先生から接種を受けるとは夢にも思わず、感激された様子でした。
「医師としての信念」「人間としての優しさ」を実感
恒松先生のコミュニケーション能力の高さは接種の場面でも発揮されます。
たとえば、接種ブースで、ワイシャツの袖が上がらない男性がいました。看護師さんが「片腕を出してください」とお願いしたら、いかにも面倒そうに不機嫌になった男性に対して、「その看護師さんはたくさんの経験があるから、言うことを聞いたほうが賢明よ」と促しました。
また、高齢者の接種が始まったときには、「お熱は出ますかね?」と心配される方に対して「どうってことないですよ。出るのであればお若いって証拠ですから」「お熱が出た際は、市販の解熱剤で良いのでお飲みください」とおっしゃっていました。
さらに、ワクチン接種後に体調が悪くなった女性に対して、恒松先生が自ら搬送先の病院を探して救急車を呼び、救急車に同伴までされました。
そんな恒松先生の医療を見ながら、私は医師としての「信念」と人間としての「優しさ」を感じました。
大西 睦子
内科医師、医学博士
星槎グループ医療・教育未来創生研究所 ボストン支部 研究員