黒船来航が国内に与えた大きな衝撃
徳川家康が江戸に幕府を開いてからの日本は、戦国時代が終わりを告げたことで泰平の世が続きました。永遠の平穏が続くとさえ思われていた江戸時代でしたが、嘉永6年(1853)にペリーが黒船で来航し開国を迫ると、国内の情勢は一変します。幕府は第12代将軍の徳川家慶が病に伏していることを理由に、アメリカ合衆国大統領フィルモアの親書に対する回答を1年先送りにしました。
ところがこれを了承したペリーが1年後に再び訪れることを宣言し帰国した10日後、家慶は死去してしまいます。将軍後継者の家定は病弱で国政を担えるような人物ではなく、老中たちにも名案はありませんでした。国内では攘夷論が高まっていたこともあり、幕府は開国要求に頭を悩ませることになってしまったのです。
当時はまだ土佐藩の郷士であった龍馬は剣術修行のため、1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許され、北辰一刀流の桶町千葉道場の門人となっていました。ペリーが来航したときには臨時招集され、品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いていました。この頃の龍馬は攘夷派であり、家族宛の手紙には、開戦した場合は外国人の首を討ち取る、としたためてあったそうです。
国内の情勢は、井伊直弼が大老に就任すると大きく動きました。それまで開国は攘夷かで意見が割れていた国内では開国を強行、攘夷派は粛清されたのです。世にいう「安政の大獄」という政策により、多くの攘夷派が処罰されました。龍馬のいた土佐藩でも、藩主・山内容堂が隠居に追い込まれてしまいます。
ところが安政7年(1860)3月3日、井伊直弼が江戸城へ登城する途中、水戸脱藩浪士を中心とした襲撃により、桜田門外で暗殺されてしまうのです。桜田門外の変と呼ばれたこの事件は国内にも大きな影響を与えることになりました。土佐藩のなかでも、尊王攘夷思想を抱くものが増え、やがて武市半平太のもとに土佐勤皇党が結成され、龍馬もこれに加わったのです。
諸藩の動向を探るため、土佐勤皇党では党員を各地に派遣して調査をしていました。龍馬もそのひとりであり、長州藩の尊王運動の中心人物であった久坂玄瑞に面会をするため、萩を訪れたのです。時を同じくして薩摩藩の島津久光が、兵を率いて京へ上洛しました。尊王攘夷派のなかでも過激な一派は、これを討幕のための派兵と勘違いし、朝廷と幕府による公武合体を唱える土佐藩から脱藩者が相次ぎました。龍馬が脱藩したのもこの頃でした。
ところが勝海舟との出会いにより、龍馬の考え方は大きく変化をします。開国論者であった勝は世界情勢と海軍の必要性を説き、龍馬はこれに感銘を受けたことが要因のようです。それからの龍馬は幕府による神戸海軍操練所の創設に奔走し、文久3年(1863)2月25日には勝のとりなしで脱藩の罪も免除されます。その後の龍馬は、新しい国づくりを目指して、国内を奔走することになるのです。
龍馬に忍び寄る運命の足音
当初は開国か攘夷か、で二分されていた政治情勢は、やがて討幕派と佐幕派に分かれて対立していきます。龍馬が目指した国づくりとは、朝廷のもとに徳川家をはじめ、有力諸藩が連なった新しい体制です。そのために必要と考えた薩長同盟の締結に尽力したことは幕府からすれば、徳川家に対する逆臣のようなもの。討幕派からは、排除したい徳川家を残そうと唱える目の上のたん瘤でしかありません。龍馬の抱いた理想というのは、ふたつの思想の間に挟まれ、そのいずれからも邪魔な者として見られてしまうのです。
幕府に狙われた寺田屋騒動など龍馬の京都での生活は、毎日が命がけでした。そうしたなかでも龍馬が後藤象二郎宛に提示した船中八策をもとに、山内容堂が徳川慶喜にこれを建白。その結果、大政奉還が実現され、理想とする新政府樹立への道筋は少しずつ整っていったように見えました。
やがて後藤象二郎の依頼で、慶応3年(1867)10月24日に山内容堂の書状を持って越前へと出向いた龍馬は、松平春嶽の上京を促して三岡八郎(由利公正)と会談したあと11月5日に帰京して、河原町三条下ル蛸薬師通にあった土佐藩出入の醤油商近江屋井口新助邸に身を寄せていました。
そして運命の11月15日、夜の8時頃だったと言います。陸援隊の中岡慎太郎と、三条制札事件で新選組に捕縛された土佐藩士のことについて話し合いをしていると、十津川郷士を名乗る客人が龍馬との面会を求めてやってきました。世話係兼用心棒の山田藤吉が案内をしようとしたところ、訪問者はこれに背後から斬りかかり、2階にいた龍馬と慎太郎を急襲します。龍馬は額に致命傷を負い、ほぼ即死状態で絶命。中岡もまた深傷を負ってしまい、襲撃から2日後に息絶えたのです。
この暗殺の黒幕は、江戸幕府・薩摩藩・土佐藩・紀州藩など諸説あります。しかし、未だ謎に包まれているのが現状です。ただ、実行犯については函館戦争で捕虜となった元京都見廻組の今井信郎の自白により、京都見廻組の組士説が最も有力とされています。こうして新国家の誕生を夢見て東奔西走した坂本龍馬と中岡慎太郎の亡骸は、京都市東山区の霊山護国神社で今でも静かに眠っています。
龍馬たちの死後、薩長土佐を中心とした官軍は、討幕に成功し明治維新を成し遂げます。龍馬の目指した新しい国とは違った新政府の形にはなりましたが、後進の者たちは少なくとも新しい形を作り上げました。現代社会においても各政党が声を張り上げ、政策を主張しています。混迷する現代日本において、いつの日かまた、坂本龍馬のような人物が現れることを願う次第です。
※坂本龍馬の生涯については、当時の政治思想や派閥が複雑に関連しているため、厳密には表現のずれがあることもありますが、全体像をご理解いただければ幸いです。