日本的な「縦ライン」という習慣が崩れている
道徳を欠いては、決して世の中に立って、大いに力を伸ばすことはできない。農作物でもさようである。肥料をやって茎が伸び、大きくなるに従ってこれに相応して根を固めなければならない。しからざれば風が吹けば必ず倒れる。実が熟さぬ中に枯れてしまう。
【『渋沢栄一訓言集』道徳と功利】
■先輩芸人になってからの後輩芸人への教え
「お笑い中間管理職」を自認するようになってから、可愛がっている後輩芸人たちがいます。そういう後輩芸人の連中には、きれいごとに聞こえるかもしれませんが、僕の気持ちとしては、「まあ、こいつらに最後は嫌われてもいいから、僕がやってきてよかったことは教えよう」という思いです。
教える中で、「もう嫌いになったら嫌いになっていいから」、あるいは「うるせえなと思ったらそれでいいよ」と思っています。また、「やさしい先輩がいて楽しければ、そっち行けばいいし。ただね、やさしいだけじゃ伸びないことはあるからな」という気持ちもあります。
以上の決意を自分で確かめて、後輩芸人に教えていこうと改めて心に刻みました。渋沢さんのこの言葉は、今、一番必要な言葉だと思います。
後輩に教えるのは、難しいことです。僕が教えた後輩芸人には、さらに後輩芸人ができてきます。僕からすると、孫みたいなことになるわけです。これまで直に教えていた後輩とは異なり、孫となりますと一人の後輩芸人を介在しますから、さらにやっかいです。
あるとき、その場で一番後輩の芸人Aに、あれこれお願いをしました。すると、後輩芸人Bが、「ああ、いいよ、いいよ。俺がやっとくよ」とやさしさを見せたのです。
このとき、面倒ですが、話さなくてはいけません。その場で、「ちょっと待て、僕は今、おまえじゃなくて、あいつに頼んだんだよ」と呼び止めました。すると、後輩芸人Bは、「いやでも今、俺がついでに立ったんで俺がやります」と言うわけです。
「いや、僕はおまえが立っていたからやってくれじゃなくて、僕はAがやったほうがいいと思って、Aに頼んでいるから、おまえがやっちゃうとAが覚えないからやらないでくれ」と話しました。この説明が、殊のほか疲れました。
後輩芸人B、つまり真ん中の後輩からしたら、そいつにはそいつの今度、役割があるはずなんです。その下に後輩がいるということは、一番下の後輩にも役割があるし、真ん中の後輩にも役割があるし、その場で言うと僕が先輩だったので、僕の役割もあるわけです。そこの立ち回りを何となく覚えておいたほうが、テレビ局から仕事をもらえるようになってから、考え方が定まりやすいと思ったので、私は教えたのです。
■日本的な縦ラインを崩していいのか?
この悲しいくらいの気苦労、これは僕に限らず、日本の職場で数えきれないほど起きている現象だと思います。単純化して言えば、日本的なる縦ラインが崩れてきている現象です。
今の若者たちは、やはり縦ラインが嫌いなんです。それはなぜなのか。答えは「面倒だから」です。ましてや、テレビなんて自由業なので、「いや、なんでその世界にいちいち縦があるんだ?」という風潮も少しはあります。
昔はすべて縦ラインでした。それが当然で、当たり前の時代でした。テレビ番組の収録前に、先輩に挨拶に行くというのも昔は当たり前でしたが、今はほとんどありません。僕が若い頃は「挨拶しないとダメ」でしたから、「挨拶ねえな」と言われました。今は「挨拶ねえな」と言う先輩はいません。
縦ラインが崩れてくると、日本のさまざまな現場での足腰がダメになっていくはずです。これは道徳ではありませんが、日本が大切にしたい慣習です。
この慣習を核に日本の道徳は広がっていきました。現場や家庭も含めて、日本はそれがうまく回るシステムであることを自覚し、教える必要があると僕は思います。
ビビる大木