四谷怪談のお岩さんもトリカブト中毒?
トリカブトは、北海道から沖縄まで日本各地に35種が自生しています。トリカブト(鳥兜)という名前の通り、小さな兜のような、独特の形の花を咲かせます。しかし、若芽の頃や花がない状態では、モミジガサやニリンソウ、ヨモギと似ているので、山菜を集める春先などには、誤ってトリカブトを食べて中毒になるケースが毎年発生しています。
根、茎、葉、花など全体にアコニチン系アルカロイドが含まれており、主な中毒症状は、不整脈、吐き気・嘔吐、口唇や口角の痺れ、四肢の痺れ、胸痛・胸部不快感、意識障害、脱力感、めまいなどです。
トリカブトの根は、附子(ぶす、ぶし)と呼ばれ、漢方薬としても古くから使われてきました。元禄時代に起きた事件を元に創作された『東海道四谷怪談』に登場するお岩さんが飲んだ毒薬も附子だとされています。お岩さんは、浪人となった夫・田宮伊右衛門を内職で支えていましたが、伊右衛門は裕福な伊藤家の孫娘との結婚を承諾。お岩さんは、伊藤家から「薬だ」と偽って届けられた毒を飲んで、髪の毛が大量に抜け落ち、容貌が崩れてしまいます。
附子は狂言にも登場しています。狂言『附子』では、主人に留守番を言いつけられた太郎冠者と次郎家者が、「桶の中に附子という毒が入っているから近づくな」といわれたのに、桶が気になって覗き込み、附子ではなく砂糖が入っていることに気づいて、全部食べてしまうというお話です。
富士山の名前の由来にもトリカブトが関係している、という説もあります。富士山は昔、「不二(ふじ)」または「不死」と呼ばれていました。これは富士山周辺にトリカブトが多数生息していたので、「附子(ぶす)」から「ふじ」に転じたというものです。
アイヌ民族の伝統的な毒矢にもトリカブトが
明治時代の北海道を舞台にした人気漫画『ゴールデンカムイ』では、アイヌ民族の少女アシリパが、トリカブトの毒を塗った毒矢でヒグマを倒すシーンが登場します。アイヌ民族は、ヒグマやエゾシカ、クジラなどの大型の哺乳類も、トリカブトから作った毒を塗った矢で仕留めていました。
アイヌ民族がトリカブトの毒を使っていたことを示す和歌もあります。平安時代の歌人・左京大夫藤原顕輔は「あさましや ちしまのえぞの つくるなる どくきのやこそ ひまはもるなれ」という和歌を残していますが、「どくきのや」は、附子のことです。
北海道には9種類のトリカブトが生息していますが、アイヌ民族が主に矢毒に利用したのは、エゾトリカブト(アイヌ語名:ノヤハムシスルク[ヨモギの葉をつけた附子])と、オクトリカブト(アイヌ語名:プイラウシスルク[ヤチブキの葉をつけた附子])です。
トリカブトの根を切った際に、断面がすぐに赤くなり、時間が経つとともに黒褐色になるものがありますが、色の変化が早いほど、毒が強いと考えられていました。また毒性を確かめるために、トリカブトの根を噛んで毒の弱いものは土に埋め、毒が強いものを利用しました。時には、トリカブトで作った毒を舌の上に置いて試すこともあったそうです。トリカブトを揉むと、刺激臭のする汁が出ますが、根を噛み砕いた時に出る匂いは強烈で、目がチカチカしてめまいがするほどだ、といいます。
トリカブトに限らず、毒を作る方法は、人によって異なり、製造方法は秘伝とされていました。しかし、幕末の探検家・松浦武四郎は、小川で使う毒矢の製法をアイヌ民族のノサカから詳しく教えてもらい、「昔は秘密にして教えなかったが、ノサカは詳しく教えてくれた」と『東蝦夷日記』に記しています。「附子にタバコの脂、クモ、クルンヘと呼ばれる水中の虫を練り合わせて、腐らせたものだった」そうです。製法を教えてもらえたのは、時代のせいだけではなく、武四郎がアイヌ民族の信頼を勝ち得ていた証かもしれません。
松浦武四郎は、28歳で初めて蝦夷地(北海道)に渡り、41歳になるまで計6回も調査をしています。当時、アジア諸国は西洋列強の植民地となり、大国ロシアが蝦夷地を狙っていることを知った武四郎は、単身、蝦夷地に入り、調査を開始しました。武四郎はアイヌ民族の協力を得て、地形や地名、動植物などにイラストを添えて詳しく記録しています。アイヌ民族と寝食を共にして調査をするなかで、アイヌの人々の心や文化に触れた武四郎は、アイヌ文化を伝える紀行本も執筆し、『近世蝦夷人物誌』は近世ルポルタージュの最高峰とされています。
しかし、明治2(1869)年に設立された北海道開拓使は、アイヌ民族の文化を破壊するような和人同化策を行いました。明治9(1876)年には、アマッポ(自動発射式の仕掛け弓)を禁止し、矢毒を用いた狩猟方法も衰退していくことになったのです。