日本の夜明けを願い、幕末動乱期を駆け抜けた志士
風雲急を告げる江戸時代の末期、江戸幕府はアメリカから訪れたペリーとの会談後、開国を迫られていました。品川でペリーの黒船を目の当たりにした龍馬は、アメリカに精通している同郷の河田小龍から海軍の必要性を聞きます。その影響もあり、やがて江戸で出会う勝海舟の弟子となり、これからは海軍の時代であることを認識するようになりました。そして、日本海軍の創設を目指したのです。
このとき、龍馬はすでに土佐藩を脱藩していました。自由な立場を活かし政治活動を展開、この混乱の時代を動かしていったのです。ところが龍馬のそうした行動は、幕藩体制の転覆を画策する危険分子のひとりであると幕府からは認識されてしまいました。なかでも薩長同盟の仲介役としてこれを成立させたことは、幕府の逆鱗に触れることになりました。
同盟が締結した当日、龍馬は伏見の寺田屋で長州藩士・三吉慎蔵と祝杯をあげます。風呂に入って就寝しようとしていたとき、事件は起きました。龍馬たちの部屋に、同宿の養女・お龍が全裸のまま駆け込んできて、宿が何者かに取り囲まれていることを知らせたのです。宿を囲んでいたのは、伏見奉行所の捕方約20人でした。
ほどなく押し込んできた彼らに、龍馬たちは薩摩藩士だと言って詮議をかわそうとしたそうです。ところが彼らは事前に得ていた情報からこれを嘘と見抜き、龍馬を捕らえようとしました。これに対して龍馬は、高杉晋作から渡されていたピストルで、三吉は得意の槍で激しく応戦したそうです。ちなみに北辰一刀流の免許皆伝だった龍馬ですが、刀の時代は終わったと悟り、このころには抜刀しなくなっていたようです。
このときの争乱で、龍馬は左手の指に傷を負います。そのため龍馬たちはその場から逃走しますが、出血がひどく、走れなくなってしまいました。これに助け船を出したのが薩摩藩です。すでにお龍からも通報が入っていたこともあり、龍馬は無事に保護され、一命をとりとめたのでした。もし寺田屋での事件が元になり龍馬が絶命し、その後の偉業が成されなかったとしたら、その後の日本の歴史は変わっていたかもしれませんね。
薩摩藩邸に運ばれた龍馬は、西郷隆盛をはじめとする藩士たちから手厚い庇護を受けたましたが、多量の出血によって大きなダメージを受け、一時はかなり深刻な状態だったそうです。さらに深手を負った左手の指は、治療が終わった後も曲がらなくなってしまったといいます。相当の深手だったようで、後世に残されている龍馬の写真で左手を隠している物が多いのは、この傷跡をかくすためだとする説もあるほどです。
西郷隆盛が「薩摩の温泉」で刀傷治療することを提案
さて、龍馬たちに奉行所襲来を伝えて窮地を救ったお龍ですが、薩摩藩邸に出向いては献身的に介抱したそうです。ところが、龍馬の傷はなかなか治りません。これを見ていた西郷隆盛は、薩摩の温泉で刀傷治療することを提案したそうです。いわば同盟締結の恩人でもあるわけですから、移動の船、同行者のあっせんなどあらゆる世話をしてくれたそうです。この西郷からの好意を受け入れた龍馬は、お龍のほかにも中岡慎太郎や三吉慎蔵たちを伴い、薩摩へと向かったのです。
龍馬がお龍を妻にしたのは、ちょうどこの時期だったといいます。当時の武家社会では、新婚旅行という習慣はもちろんありませんでした。それだけでなく、夫婦だけで旅行するという習慣もなかったようです。そのため2人のこの旅行は「日本初の新婚旅行」といわれるようになったようです。京都を出発した龍馬一行は、翌日には大阪に到着しました。そこから海路にて向かった下関で中岡、三吉の2人は下船。龍馬たちはそのまま鹿児島へと向かったそうです。
鹿児島に到着した龍馬たちを迎えたのは薩摩藩士・吉井幸輔でした。吉井はそのあと、龍馬たちに随行し、塩浸、栄之尾、霧島などの温泉場を巡りました。この道中、龍馬とお龍は霧島の犬飼滝を見物したり、山に入って新たに入手した拳銃の試し撃ちをしたりするなど、新婚旅行を楽しんだようです。また、龍馬はどのような旅行だったのかを、姉である乙女に手紙で報告しています。そこには、龍馬とお龍が霧島山山頂の天の逆鉾を見ようと高千穂峰に登ったとき、同行者の制止を無視して逆鉾を引き抜いてしまう悪戯を楽しんだことなども、図解入りで詳しく書かれています。
龍馬とお龍の新婚・湯治旅行は、おおよそ一カ月半くらいの期間でした。もちろん、傷の治療に時間がかかったこともあるのですが、西郷が薩摩慮内で安全な隠遁生活を2人が送れるように計らったという側面もあります。ただ、この約2年後に龍馬は京都の近江屋で暗殺されてしまいます。龍馬とお龍にとって短い夫婦生活ではありましたが、唯一2人がのんびりと過ごすことのできた時間であったことも事実なのです。明治時代になってから、生きながらえたお龍は再婚こそしていましたが、当時を振り返って周囲の人たちに伝えたといわれています。