二度の大きな危機に直面して考えたこと
それまで銀行でサラリーマン根性を徹底的に叩き込まれてきた自分にとって、心底考えさせられる内容でした。自分もこうした人間の真実に気づかないまま、「会社内の階級イコール人間の価値と信じ込んできた」のではなかったか。人間は本当に追い詰められたときに、なにを心の支えにするのか、自分の内面というのは実はなにもない空洞に過ぎなかったのではないかと。
ナチスの強制収容所経験をもとに書かれたヴィクトール・フランクルの『夜と霧』も読み直してみました。この本は学生時代に読んだことがありましたが、その内容のあまりの壮絶さに、どのように消化したら良いか分からずにいました。しかし、私が体験したことはそれにはほど遠いレベルではあるにせよ、自分が厳しい状況に追い込まれると、絶望のふちに立たされてもなお人間性や希望を失わなかったフランクルがなにをどのように考えていたのか、この時初めて自分事として読むことができました。
フランクルは、「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない」といっています。つまり、我々人間は、常に「生きる」という問いの前に立たされており、それに対して実際にどう答えるかが我々に課された責務なのだということです。
そして、後日ではありますが、フランクルが強制収容所の中で、自らに降りかかる運命をいかに克服してゆくかを説くストア哲学(ストア派)の教えを心の支えとしていたと言われていることを知りました。
戦時体制で国有化された電力事業を今の九電力体制に組み替えて、「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門は、実業家がひとかどの人物に成長するには、「闘病、浪人、投獄」のどれかを体験しなければならないと言っています。このどれもが、自らの存在意義を問われるような大きな出来事です。
つまり、自分の存在が脅かされるような過酷な状況に立たされたとき、人には生きようという不思議な本能が働き、五感が研ぎ澄まされて、一皮むけた人物になるということなのです。そして、そうした深く厳しい人生経験と良書が時空を超えて、胸襟を開いて互いに出会える瞬間に備えることこそが、まさに本を読む意味なのだと思います。
それから十年が経ち、こうした苦しみからやっと抜け出すことができ、森ビルの森稔会長と一緒に都市開発の大きな夢を見て、心身ともに充実した仕事ができていた中でリーマンショックに直撃されたときには、さすがにこれはなにか一過性ではない、根本的な問題に突き当たったと考えざるを得ませんでした。
それは、私を取り巻く経済環境の問題なのか、あるいは自分自身が抱える業なのかは分かりません。
いずれにしても、ただ自らの不運を嘆くだけでなく、もっと本質的な問題に能動的に取り組まなければならないし、こうした二度の大きな危機を経験した以上、自分なりにこの問題に正面から立ち向かうことで、なんらかの決着をつけなければ、これ以上、ビジネスマンとして前に進めない、そう強く感じたのです。