東洋哲学は「いかに生きるか」人生の実践に重点が
我々日本人のルーツは東洋にあります。そこでここでは、東洋哲学や日本哲学について、西洋との比較において概略します。
西洋哲学と東洋哲学の大きな違いを挙げると、まず、西洋は「学」としての哲学、東洋は「教」としての哲学と捉えることができます。西洋哲学は、数学に代表される論理的思考を前提として、世界の本質を言葉で理論的に解明しようとしています。
これに対して、東洋哲学は、論理的整合性よりは、「いかに生きるか」「いかに体得するか」という人生の実践に重点が置かれています。
また、西洋哲学では、主体と客体を分離した二元論的で要素分解的な思考によって真理を追究するのに対して、東洋哲学では、主体の内側に真理を求める一元論的な思考をするという違いがあります。
強いて言うなら、東洋哲学はより実践的な側面を重視するという意味では、古代ギリシア・ローマ時代のストア哲学に近いものです。また、西洋近代哲学を、イギリス経験論・大陸合理論・ドイツ観念論の三つに大別するなら、東洋哲学は、人間経験の裏づけによって哲学の有効性を判断するイギリス経験論に近いといえます。
こうしたことから、西洋哲学と東洋哲学とでは、たとえば「真理」の捉え方が異なります。西洋では、プラトンの時代から「真・善・美」の三つを価値ある理想(イデア)として追い求めてきましたが、その最初に挙げられるのが真理です。キリスト教の『新約聖書』(「ヨハネによる福音書」第1章)に、「はじめに言葉ありき」と書かれているように、西洋では言葉が重要な意味を持ち、真理も言葉によって表現できると考えてきました。
これに対して、たとえば仏教の「真理」は言葉では説明し尽くすことができないものだとされています。仏教では、存在の究極的な姿としての真理を「真如(しんにょ)」といい、これは「あるがままにあること」を意味します。しかし、言葉は不完全なものであることから、本当の真如は悟りを開いた仏陀にしか分からないとされています。このように、言葉では言い表せない真如を「離言真如(りごんしんにょ)」といいます。
仏教の一派である禅宗には、悟りは文字や言葉で伝えられるものではなく、師の心から弟子の心へ直接伝えられるものであるという「不立(ふりゅう)文字」という考え方があり、真理を悟るには修行(坐禅による瞑想)によるしかないとされています。
禅宗の僧が悟りを開くために行う問答を「禅問答」といいますが、現代ではこれが転じて、「なにを言っているのか分からない難解な問答」や「まったく話のかみ合わない問答」を意味するのは周知の通りです。真理は言葉では言い表せないことを前提にしているのですから、禅問答が難解になるのは当然といえます。
そもそも、中国には古くから「言は意を尽くさず」(『易経』繋辞〔けいじ〕伝)のように、言葉は不完全なもので、人の心は正確に伝達できないという考え方があります。特に、諸子百家のひとつで老子、荘子に始まる道家の思想にはそうした考えが強く、『老子』には「知る者は言わず、言う者は知らず」、『荘子』にも「道は言うべからず、言えばすなわち非なり」(知北遊篇)と書かれています。
中国の代表的な古典に「四書五経」(四書は『論語』『大学』『中庸』『孟子』、五経は『詩』『書』『礼』『易』『春秋』)がありますが、ここに書かれているのは、儒教に基づく政治の実践的手法と社会秩序のあり方で、西洋的な意味における「哲学」ではありません。特に、皇帝を頂点とした政治的秩序に従うべきことを示した「忠」と、血縁社会の中で年長者に服すべきことを示した「孝」の重要性が強調されていて、これらによって社会が秩序だって形成されるとしています。