初めて必死で読んだ瀬島龍三の回想録
最初の金融危機の時に、私は生まれて初めて、本当の意味で本を「読んだ」と言えるかもしれません。それまでも、学生の頃はそれなりに多くの本を読んでいたとは思います。しかし社会人になってからは金融の資格試験や海外留学など、ひたすら知識を詰め込むための読書、試験を通るための読書しかしていませんでした。
それが、その時には、ある意味で自分の存在をかけて、必死に読書をしたように思います。読書で「必死に」という形容はおかしいかもしれませんが、それほど真剣だった、短く言えば、「溺れる者は藁をも掴む」という切羽詰まった状況だったということです。
最初に私が必死に読んだのが、瀬島龍三の回想録『幾山河:瀬島龍三回想録』でした。瀬島龍三は、山崎豊子の小説『不毛地帯』のモデルにもなった日本のフィクサー的存在です。もともと、陸軍士官学校に在校していた私の父親からその名前をよく聞いていたこともあり、陸軍大学首席、陸軍大本営からシベリア抑留、そして伊藤忠商事に転じ、最後は土光敏夫会長の下で臨時行政調査会を切り盛りしたという波乱万丈の人生に興味を持っていました。
もちろん、瀬島龍三が当時から毀誉褒貶のある人物なのはよく分っていましたし、この本は彼自身が書いた自伝ですから、自分に都合の悪いことを書いてあるとは思えません。ただ、私が何度も読み返したのは、彼の成功物語ではなく、シベリア抑留時代の部分でした。
その一節に、「人間性の問題」というタイトルの、次のような文章があります。
<抑留十一年は、まさに苦難の月日で、時には極限と思われる時期もあった。もちろんそれは私だけでなく、約六十万人の抑留者全員がそうだったに違いない。(中略)
こんな苦しい環境の中では、人間は誰も彼も粉飾できるものでなく、ほとんど「裸」にならざるを得ない。(中略)
極限状態のとき、我々日本人の中には、腕力で人のパンを奪ったり、暴力をふるう者も時にいた。反対に、そんなときに自らのパンを割いて病気の友に与え、回復を助ける者もいた。「人間とは何ぞや、その本質とは何か」……私はつくづく考えさせられた。第四十五特別収容所で繰り返し読んだビクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』に「人間は二つの中心に立つ包摂された楕円である」とあるのを見つけ、深く共感した。
すなわち、精神と肉体、感情と理性、善行と悪行の両面を包有する「生きもの」であること、これが人間の本質だという。人間の弱さ、醜さを克服するのは容易ではない。平常から信仰心、責任感など心の鍛錬が肝要と痛感した。また、「人間にとって最も尊いものイコール人間の真価」についても考えさせられた。自身が空腹のときにパンを病気の友に分与するのは、簡単にできることではない。
しかし、それを実行する人を見ると、これこそ人間にとって最も尊いことだと痛感した。「自らを犠牲にして人のため、世のために尽くすことこそ人間最高の道徳」であろう。それは階級の上下、学歴の高低に関係のない至高の現実だった。私は幼少より軍人社会に育ち、生きてきたので、軍人の階級イコール人間の価値と信じ込んできたが、こんな現実に遭遇して、目を覚まされる思いだった。
軍隊での階級、企業の階職などは組織の維持運営の手段にすぎず、人間の真価とは全く別である。したがって、階級、職階の上位者ほど自らを厳しく律し、人間的修練をより重ねていくことが必要だ。“Noblesse Oblige”の精神を持たなければならないし、また、組織の上にある者は、表側ばかりを見ずに組織の裏側に光を当て、黙々と全体を支えている人たちを忘れてはならない。人間の修練は誠に限りない。棺を蓋うまでの努力ではあるまいか。>