畑仕事は労働で、ガーデニングは遊びなのか
■労働+報酬=活動
私たちの活動が経済的利得を得るためのインストルメンタルな手段から、その活動そのものによって喜びが得られるコンサマトリーな活動に転換することによって、私たちの社会における「生産と消費」「労働と報酬」の関係もまた、大きく変わることになるでしょう。
私たちは「生産があって、しかるのちに消費がある」あるいは「労働があって、しかるのちに報酬がある」と考えます。これはまさしくインストルメンタルな考え方で、それぞれに手段と目的の関係が成立し、時間的にも前後します。
ところが「高原社会」では、この関係はそれほど自明なものではなくなります。なぜなら「行為そのものが報酬になる」というコンサマトリーの定義上、「生産と消費」あるいは「労働と報酬」を、はっきりと区分して整理することができなくなるからです。
私たちは「労働」と「遊び」をまったく逆の行為のように考えてしまいがちですが、この二つは関わる主体の捉え方でどちらにでもなり得ます。医学博士の養老孟司先生は以前から、東京のサラリーマンに年に一回の参勤交代をさせろ、と言っていますね。つまり一年間のうちのある一定の期間、地方に行って畑仕事をさせる、ということです。
このように表現すれば「この自由と民主のご時勢になんと時代錯誤な」と思われるかもしれませんが、なんのことはない、これをフランスの人々に話せば「ああ、バカンスか。いいね」と言うはずです。
「畑仕事」といえばそれは「労働」になりますが、同じ行為を「ガーデニング」といえば「遊び」になる。これは魚釣りも狩猟も同じで、過去の社会においてど真ん中の「労働」であったものが、今日の社会において優雅な「遊び」に転じているわけです。
一方でその逆に、かつて貴族にしかできない「余暇」の過ごし方だった、研究、創作、執筆、ガーデニング、スポーツといった活動のほとんどは、今日の社会において、何からの経済的価値を生み出す「労働」として認められるようになっています。
狩猟はその典型でしょう。かつては命を失うこともある過酷で厳しい労働だったわけですが、現在ではもっとも裕福な人々が嗜む優雅な遊びになっています。ロンドンのコヴェント・ガーデンにRulesという、肉料理がとても美味しいレストランがありますが、ここでジビエ(狩猟で得た天然の野生鳥獣の食肉)のメニューを覗くと、そこには「GAME」と書かれています。
つまり、かつては過酷な労働であった「狩猟」を「ゲーム=遊び」と表現しているわけです。今日の世界において、「労働」と「遊び」の境界はすでに無効化され、主体の捉え方次第になっているのです。