なぜ「余暇だけの社会」はあり得ないのか
■「労働」のない社会には「余暇」もない
私たちはなんとなく「余暇」という言葉に、ある種のロマンや贅沢さを感じるわけですが、このような淡い感覚は「労働とは辛く苦しいものだ」という認識の反転写として仮象されています。
「余暇」という概念のニュアンスが「労働」という概念の反転によって規定されるということはつまり、「労働」の概念がポジティブなものに転換すれば、「余暇」という概念は逆にネガティブなものへと転換せざるを得ない、ということです。アシモフは、そのような思考の射程をもって「強制された余暇」のディストピアの中で「労働が輝かしいものになる」社会を懸念しているのです。
アシモフのいう「強制された余暇」とは、現在の私たちがいうところの「失業」です。すでに本連載で考察したように、需要が飽和した高原社会で生産性を高めるイノベーションを推進すれば、それは必然的に失業を発生させることになります。
「労働のない余暇だけの世界」と聞けば、それはかつて多くの人が夢想したユートピアのように思われるかもしれません。しかし、この状態を「すべての人々が失業した世界」と表現すれば、それはこれ以上ないほどに停滞したディストピアのように思われます。そのような社会で人々が人生に充実感を覚えながら生きていくことは難しいでしょう。先述した通り「余暇」は「労働」の反転写として規定される概念でしかありませんから「労働」のない社会には「余暇」もありません。
これはつまり、何を言っているかというと、「余暇だけの社会」などというのはあり得ないということです。私たちの活動を「労働」と「余暇」という二つの枠組みで整理するという考え方は、労働とは辛く苦しいものであり、それは「労働をしなくてよい時間=余暇」を手に入れるための手段でしかない、というインストルメンタルな世界観を前提にしなければ成り立たない考え方なのです。
一方で、高原社会における労働観は、労働そのものが報酬として主体に回収されるという点で、かつてのそれとはまったく異なるものになります。このような世界においては「労働と報酬」が、あるいは「生産と消費」が一体のものとして溶け合い、「未来のために、苦しいいまを頑張る」というインストルメンタルな思考様式から、「この瞬間の充実のためにいまを生ききる」というコンサマトリーなそれへと転換することになるでしょう。
山口周
ライプニッツ 代表