(※写真はイメージです/PIXTA)

ヘレンケラーといえば、「見えない」「聞こえない」「話せない」という三重苦であったことは、よく知られています。しかし、ヘレンケラーは少しだけ、話すことができたと言われています。ではどれくらい話せたのか、どうして話せるようになったのか、解説しましょう。

自分の使命に気づく

大学を卒業後、障碍者が出席する国際会議でスピーチした際、「皆さんお願いです。目や耳が不自由な子供達の為に、手を差し伸べてください」と、ヘレンケラーは訴えました。このスピーチがきっかけとなって、「自分の使命は障碍者の救済だ」と気づきます。

 

そこで彼女が最初に取り組んだのが、視覚障碍者が働ける仕事を確保することでした。ヘレンケラーはさらに、視覚障碍者にならないための対策も訴えました。当時は、性病にかかった女性が妊娠出産することにより、目の見えない子どもが数多く誕生していたのです。

 

しかし、自身が性病にかかっていることを、認めたくない女性が多かったので、視覚障碍児は増えるばかりでした。ヘレンケラーは、当時すでに明らかだった、性病と失明の因果関係を説明し、視力障碍者を少しでも減らすために尽力しました。

 

このように、ヘレンケラーが各方面で活躍できたのは、サリバンのサポートがあったからです。もちろん、サリバンが言葉を教え、聾学校の校長から本格的な発声法を学んだことが、その後のヘレンケラーの活動を支えたのは、言うまでもありません。

ヘレンケラーと日本

ヘレンケラーは、昭和12年(1937)、昭和23年(1948)、昭和30年(1955)の3回来日しています。3度におよぶ来日により、ヘレンケラーの名前は、日本でも広く知られるようになりました。2度目の来日は、ちょうど日本が敗戦して間もない頃で、日本中がすさんだ状況だったこともあり、各地で熱狂的な歓迎を受けることになります。

 

こうして、彼女が日本各地を講演して回ったことをきっかけとして、2年後に身体障害者福祉法が制定されました。そして、こののち東京ヘレンケラー協会が創設されます。ヘレンケラーは同協会の名誉総裁となり、3度目の来日の際は、ヘレンケラー学院の講堂で講演を行って、東京ヘレンケラー協会の発展を見届けました。

 

ヘレンケラーとサリバンは、常に二人三脚で歩んできましたが、残念ながらヘレンケラーの初来日の直前に亡くなっています。ヘレンケラーを50年も支えた偉大な生涯でした。一方、ヘレンケラーは昭和43年(1968)6月1日、88歳の誕生日を目前に亡くなり、首都ワシントンのワシントン大聖堂の地下に眠っています。

 

ヘレンケラーは、恩師ともいうべきサリバンが亡くなって、30年以上もの間たった1人で、障碍者の自立と幸福のために戦い抜きました。サリバンなくしてヘレンケラーはなく、ヘレンケラーがいなければ、今日のような障碍者の社会進出は、ずっと遅れていたかもしれません。
 

 

 

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