(※写真はイメージです/PIXTA)

ヘレンケラーといえば、「見えない」「聞こえない」「話せない」という三重苦であったことは、よく知られています。しかし、ヘレンケラーは少しだけ、話すことができたと言われています。ではどれくらい話せたのか、どうして話せるようになったのか、解説しましょう。

ヘレンケラーの三重苦

ヘレンケラーは、1880年6月27日にアメリカで生まれました。1歳半の頃、高熱から髄膜炎を患い、一命はとりとめましたが、聴力と視力を失ってしまいます。赤ちゃんは、周囲の大人の会話を聞いて言葉を覚えるので、1歳半で聴力を失うと、話すこともできなくなります。そのため、ヘレンケラーは三重苦になってしまいました。ただし、聴力を失ったために話せないだけなので、声帯に問題があるわけではありません。だから、彼女はのちに話せるようになったのです。

 

しかし、聴力を失うと、親が話しかけても通じないので、しつけを受けることができず、ヘレンケラーはわがままに育ってしまいます。その後、サリバンと出会うことによって、しつけと指文字、言葉を教えられ、ある程度話すことができるようになったのです。サリバンはその後、約50年にわたって、教師として友人として、ヘレンケラーを支えました。ヘレンケラーとサリバンの物語は、「The Miracle Worker」というタイトルで、舞台化、映画化されました。日本では「奇跡の人」という邦題で映画が上映されましたが、「The Miracle Worker」とは「奇跡を起こす人」という意味で、本当はサリバンのことを指す言葉なのです。

話せるようになった訳

ヘレンケラーが話せるようになったのは、上記で触れたように、サリバンに言葉を教えてもらったからですが、実はこれだけではありません。彼女が通っていた聾学校で、校長先生から本格的な発声法を習ったこともあって、話す技術がメキメキ上達していったようです。先生の顔に手を触れて、言葉をしゃべるときの、舌と唇の動きを真似することによって、しゃべれるようになりました。やがて、ヘレンケラーは自由に話せるようになりましたが、彼女が最初にしゃべった言葉は「It is warm(暖かい日)」でした。

学力優秀の陰に

ヘレンケラーはラッドクリフ女子大学という、アメリカの女子大学で最難関と言われる大学を、優秀な成績で卒業しています。

 

ヘレンケラーがそれだけの成績を修められたのは、サリバンのお陰でした。サリバンはヘレンケラーの隣に座り、授業内容を逐一彼女に伝えました。このような、サリバンの献身的なサポートのお陰で、優秀な成績で卒業できたのです。

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