病院での「最期の時」人間らしいと言えるか?
ここまで、在宅療養について、「病院と変わらない体制」ということを強調してきました。それは、必要に応じて病院と変わらない医療体制を構築することも可能なので、どんな疾患や病状であっても安心して在宅療養できるという意味です。
しかし、私は「病院と同じ治療を自宅でも行うべき」と考えているわけではありません。
世の中には、がんに限らず、治らない病気がたくさんあります。また、特に大きな病気がなくても、人は生きている限り老化が進み、体のすべての臓器の機能が衰えていきます。そして、すべての人は、いつか必ず人生の最期=死を迎えます。
その“死”に対して逆らい続けるのではなく、最期まで自然な姿で楽しく穏やかに過ごすことができれば、今をより良く生きることにつながるのではないか――。もちろんそのためには、必要最低限の医療行為は必要です。特に、痛みなどの苦痛を緩和することは在宅医の最も重要な仕事です。
病院の役割は、最期まで治療を続けることですので、飲食ができなければ点滴を実施し、自分でトイレに行けなければ尿道にカテーテルを留置して自動的に排尿するようにします。体内に酸素が不足していれば酸素マスクなどで酸素を投与します。
病状が重い患者さんの場合、いつ急変し呼吸や心臓が停止するか分からないので、胸や指にセンサーをつけ、持続的にモニタリングします。体中が何らかの管につながれた状態で最期まで治療を続けるのが、一般的な入院中のイメージです。最期も、患者さんの顔や体を見て呼吸が止まったか確認するのではなく、モニター画面をじっと見つめ、心電図モニターが完全に平坦になる瞬間を待つこととなります。
一方、在宅療養中の患者さんの場合、苦痛を緩和するために実施する場合を除き、点滴などの医療行為は最低限のものにとどめることがほとんどです。最期まで体全体のケアを続け、家族等に見守られながら、最期の時を迎えます。
多くの場合、静かに眠っていると思って家族が様子をうかがうと、胸も肩もお腹もまったく動いておらず、口に手を当てても呼気を感じられないことに気づき、訪問看護師や在宅医に連絡し、医師が往診して診察し、胸部の聴診で心肺停止を確認、さらに目を観察して瞳孔散大と対光反射消失を確認し、家族に死を告げるという流れになります。