シェアを大逆転した、アサヒビールの教訓
もはやライバルとさえ言えないほどの断トツ、キリンビールとのシェア差50%余をひっくり返して、戦後最大のヒット商品と言われたアサヒビールの「スーパードライ」。その商品力と発売時の社長、樋口廣太郎氏の経営力については、万巻と言ってもいいほど多くの書籍が刊行されており、今さらここで繰り返すこともあるまい。
しかし、「スーパードライ」の大ヒットと樋口氏の成功には前史がある。樋口氏の前任社長として、1982年に同じく住友銀行副頭取からアサヒビールに乗り込んできたのは村井勉氏である。村井氏は東洋工業(現・マツダ)の再建に注力した後、銀行に戻ると関西経済同友会代表幹事を務めた。
このおり半年にわたりアメリカ企業の視察に赴いた村井氏は、優良企業であればあるほど実践的で優れた経営理念を有していることに着目する。なかでも感銘を受けたのは、ヘルスケア・医薬関連企業として知られるジョンソン・エンド・ジョンソンの、「顧客に対する責任」「従業員に対する責任」「地域社会に対する責任」「株主に対する責任」の4カ条からなる経営理念“Our Credo”(我らが信条)だった。ちなみにジョンソン・エンド・ジョンソンに限らず、デュポンやロレアルといった老舗や高級ブランドはもとより、アマゾンやフェイスブックなど新興企業に至るまで、欧米企業の多くは経営理念を有している。
村井氏はアサヒビール社長に就任すると、「夕日ビール」と揶揄されながらも名門ゆえに危機感の乏しい社風の刷新が何はともあれ緊要だと考え、新たな「経営理念」の作成を急ぐことにした。作成を命じられたのは部長会メンバー15人。彼らは部下の意見を聞きつつ文案をまとめ、何度か差し戻されたうえで、ようやく村井氏が納得する成案に行き着く。およそ4カ月かけての作業だった。
新しい経営理念は、「わが社は、酒類、飲料、食品、薬品などの事業を通して国の内外を問わず、すべての人々の健康で豊かな生活文化の向上に役立ち、社会に貢献し、社会の信頼を得て発展する企業をめざす」というもので、同社の新生を予感させる、みずみずしい文章となった。
加えて消費者志向、品質志向、人間性尊重、労使協調、(取引先や関係会社との)共存共栄、それに社会的責任の6項目について具体的な考えを付記している。同時に社員の日々の活動規範となる10項目の「行動規範」を策定、これを胸ポケットに入るほどの小冊子にして全社員に配っただけでなく、各職場で唱和するように指導、全社的浸透を図った。
一方で村井氏はTQC(トータルクオリティーコントロール)やCI(コーポレートアイデンティティー)を導入、全社的品質管理と企業イメージの刷新にも手を付けた。この時期、村井氏の手足となって働いたのが、当時、広報部係長だった現在のアサヒグループホールディングス会長の泉谷直木氏である。
村井氏の「経営理念」策定を軸にしたアサヒビールの体質変革は、社員の意欲を?き立てて、86年2月には「スーパードライ」の先駆けとなる「コクキレ」の通称で知られた「アサヒ生ビール」が売り出されることになる。この年、アサヒビールのシェアは反転上昇を始め、翌87年3月の「スーパードライ」発売へとつながっていく。
アサヒビールの場合、「経営理念」の策定が社風、企業体質を一新し、希有の大ヒット商品を生み出しただけでなく、その過程で次代の経営トップをも育てたと言えなくもないのである。
清丸 惠三郎
ジャーナリスト
出版・編集プロデューサー