投資信託は、親会社の意向に沿って手数料を得る「器」
ヘッジファンドは私募ファンドだ。したがって、アクセスできる投資家は基本的に富裕層、金融機関や年金基金という大口投資家である。一方、投資信託(投信)は公募ファンドなので、ヘッジファンドとは異なり、一般個人などが投資できるファンドだ。
現在、筆者は投資信託会社を営んでいるが、ヘッジファンドに勤めていた当時は全く興味のない業態であった。その理由は、投信の親会社である日本の証券会社など「販社」の慣行にあった。
1999年のIT相場のときに某大手証券系の投資信託会社が設定した大型投信のファンド・マネジャーに、私の友人が任命された。「器」であるファンドを先に設定することを決めて、その後に「魂」であるファンド・マネジャーを注入したわけである。
これには違和感があった。
本来のファンド・マネジャーの仕事は、投資対象となる会社を訪問して取材し、調査と分析を進めたうえ、銘柄選別して運用ポートフォリオを構築する。しかし、その投信会社は、筆者の友人を大型投信の「顔」として成り立てた。彼は地方の講演会などマーケティングの一環として使われることが多くなった。
結果、本来やるべきそうした調査活動に専念できなくなった。それだけではなく、投資銘柄を選別するときにも、周囲から横槍が入ってきて色々と注文がついたようだ。つまり、本人の判断では投資したくない銘柄まで、買わされてしまったのだ。
投資という仕事は難しい。神経も磨り減る。したがって、運用担当者には投資の業務に100%神経を使わせるのがベストだ。ファンド・マネジャーに組織的な雑用を押しつけていては、本来得られる利益を逃しかねない。
ただ、投信会社は親会社が当てにしている3%の販売手数料のためにカネ集めの大型の器を作り、その後にファンド・マネジャーという魂を入れた。だから、ファンド・マネジャーはカネ集めのために多くの時間を使うことが当たり前という慣習になっていた。
しかし、運用担当者が運用に専念できないようであれば、良い運用実績は期待できない。そして、良い運用実績が続かないのでは、いずれ投資家は離れていく。投資家が解約すると、ファンド・マネジャーはファンドの現金化に迫られ、手放したくない保有銘柄まで市場で売却する必要もでてくる。
一方、投信の運用成績が良くて収益が出ると、買い増しを進めるのではなく、逆に売却という短期さや取りの商品としか考えていないことが当時の日本の投資信託の状況だった。回転売買した方が販社の親会社が儲かるからだ。
当時も、長期的な投資戦略として新たな投信ブームを騒ぎ立てていたにもかかわらず、「日本の証券会社も、投資信託も、投資家も、ちっとも前と変わっていない」と友人が頭を抱えて吐いた言葉が印象的だった。
ヘッジファンドにはファンドマネジャーの「魂」が宿る
ヘッジファンドは逆だ。基本的に金融ベンチャーであるうえ、「魂」がなければ、「器」の存在は必要ない。と言っても、起業段階のヘッジファンドは、ファンド・マネジャー自身がカネ集めのマーケティングに従事する。大組織のサラリーマン・マネジャーは運用資金が用意されているが、ベンチャーである上、自分自身がマーケティングに積極的に関与しなければ、そもそも運用する資金がない。
また、投資家の視点からも新規ファンドに運用を託す場合、「魂」であるファンド・マネジャーの運用能力、そして、それ以上に、人間としての動機付けやインテグリティの判断が重要であるうえ、本人との面接を要求することが通常である。
一方、現在でも日本で販売されているほとんどの投資信託は「器」、つまり、看板とその時に旬なテーマしか投資判断となっていない。「魂」が重視されていないファンドに投資することは、ヘッジファンドの世界で育った自分としては本末転倒であり、全く関心が向かない分野が投資信託であった。
それが、年月を経て、自分自身が投資信託会社を設立しているとは、当時は全く考えられなかった。ただ、言えることは、ヘッジファンドの世界を体験しなければ、そもそも金融ベンチャーを立ち上げることはなかったということだ。