相手が目上か目下にかかわらず、敬意を払うことが大切
(人との交際には敬意を大切にすること。宴会などで遊び楽しんでいる時でも、礼儀に欠けるようなことがあってはならない)
小学校から大学卒業まで十数年間をアメリカで過ごした筆者は、就職時に日本に帰国した。日本の組織に所属したばかりの筆者にとって、非常に印象深かったことがある。それは、日本人の多くが、相手の地位によって言葉づかいから態度までを著しく変えることだった。
もちろん、相手が目上か目下かにかかわらず、他人にきちんと敬意を払って接する日本人もいる。ただ、目上にへりくだる一方、目下には無神経な人を見ると、引っかかるところがあり、心を許せないと感じたものだ。
酒の席になると、さらにひどくなる。目下はもちろん、今度は目上への敬意まで忘れてしまうほど酒に飲まれてしまう日本人が少なくない。腹を割った「飲みニケーション」は大切であるが、みっともない行為の印象はなかなか失せることがない。
一方、「世間」という概念、「恥」という概念__。過剰に形にこだわり、儀式にとらわれやすい日本人の根にある概念だ。
しかし、この恥をかきたくないという気持ちは「相手」に対する気配りではなく、極めて「自己中」の現象だ。本当に相手のために礼を尽くしているのではなく、単なる自分の保身である。栄一がいう礼儀とは「形」ではなく、もっと根源的な人と人との「信頼」のことではなかろうか。
明治維新でそれまでの階級制度が崩れ、武家社会は崩壊した。武士、農民、町人、職人……、いままで分断されていたコミュニティが統合され、新しい社会をつくっていった。そしてその新しい社会をつくる出発点で重要なのは、マニュアル化されたコミュニケーション術ではない。
相手とひざを突き合わせる「信頼」の心である。栄一は、その大切さを経験上、知り抜いていた。