(※画像はイメージです/PIXTA)

物流ネットワークの重要性は、災害が起こるたび注目を集めます。いまも静岡の土砂災害を受け、多くの運送業者が支援物資の輸送に尽力しています。日本は「災害大国」と呼ばれるほど数多くの災害を経験し、その復興の影には常に物流の存在がありました。本記事では輝かしいイメージとは裏腹に、渋滞問題の深刻化や立て続けの天災に見舞われた高度経済成長期を振り返り、物流が果たしてきた役割を紐解きます。

豪雪・大地震…災害時に問われる「物流会社の真価」

急速に悪化した道路事情を、政府も手をこまねいて見ていたわけではありません。着々と道路の整備を進めていました。

 

1963年には、日本で初の高速道路として、名神高速道路の尼崎―栗東間が開通。続いて1965年に名古屋―阪神地区の全線が開通し、これまで5、6時間もかかっていた移動時間が、2時間程度に短縮されました。

 

もう一つ注目すべきは、1962~63年の冬をきっかけに、政府が上信越地方の大規模な幹線道路整備に着手したことでしょう。

 

群馬、長野、新潟という上信越地方のなかでも特に多く雪が降る新潟では、12月から3月半ばくらいまで道路が雪に覆われるため、輸送業務に大きな支障が出ていました。

 

1962年、12月のクリスマスあたりからまとまって降り出した雪は、翌年1月に本格的な大雪となりました。全国的に気温が平年より約3度も低くなり、日本海側には分厚い雪雲が居座って、日照時間も短くなったため多くの地域で雪が解けずに積もっていきました。

 

新潟でも、明治時代以来の豪雪に見舞われ、県下の鉄道や幹線道路がすべて止まるという事態となりました。孤立する集落がいくつも出て、雪の重みにより住宅が倒壊するといった被害も相次ぎました。政府は北陸を含めた広域に災害救助法を発動しましたが、物資が運べなければ、支援できません。

 

そこで活躍したのが、地元の運送業者でした。雪の降るなか、必死に除雪作業を行ってわずかな時間でも道路を確保し、緊急支援物資を運んだり、そりを使って人力で家々を回り物資を届けたりと、地域の人々の生活をなんとか守るべく、全身全霊を尽くしました。

 

このときの教訓から、政府は上信越地方の幹線道路整備に動き、上信越自動車道などを建設。豪雪に見舞われるたびに機能しなくなっていた道路輸送が改善されていきました。

 

ちなみに新潟では1964年に大地震が発生、立て続けに天災に襲われました。1000戸もの家屋が倒壊し、交通の要である大橋が分断されるなど甚大な被害が出ましたが、その際に各地のトラック会社が救援物資を積んだトラックを急行させ、現地で支援を行ったといいます。災害下においては、特に物流会社の真価が問われる。筆者はそう考えています。

 

(著者提供)
(著者提供)

 

 

鈴木朝生

丸共通運株式会社 代表取締役

 

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    ※本連載は、鈴木朝生氏の著書『物流の矜持』(幻冬舎MC)より抜粋・再編集したものです。

    物流の矜持

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    鈴木 朝生

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