わずか5年で「トラックの積載性能」が3倍に!
1950年代後半は、航空機による荷物の輸送が発展した時期でもあります。
多くの荷主から集めた小口貨物を、混載業者が大口にまとめて航空会社に輸送を頼む「航空混載」が始まったのが1955年6月。日本通運が混載業者を務め、日本航空の札幌―東京―大阪―福岡路線で実施されました。日本通運は、1945年に設置されたIATA(国際航空運送協会)の代理店の資格を取ったうえ、1958年から国際航空混載業務の取扱も開始し、短期間で世界的な航空混載ネットワークを構築しました。
陸路においても、全国各地で道路の整備が進むとともに、トラックの性能も向上し、貨物輸送の領域で競争が起きていました。特に、箱根の山を越えて東西をつなぐ東海道路線で運ばれる荷物が日に日に増え、「ゴールデンルート」と呼ばれるようになりました。
東海道路線には、西濃運輸株式会社、福山通運株式会社、日本運送などがトラックを走らせていましたが、そこに参戦したのが、大和運輸(現在のヤマト運輸)でした。それまで大和運輸は、関東一円を主戦場としており、東西間の輸送は国鉄の貨物列車に頼り切りでした。
その背景には、創業者小倉康臣の、関東を中心とした近距離小口輸送に対するこだわりがありました。もしかするとこのこだわりこそ、のちにヤマト運輸が「宅急便」を推進していく原動力となったのかもしれません。
大和運輸では、「箱根の山の向こうにはお化けがいるから越えてはいけない」といわれていましたが、それは1946年ごろ、自動車メーカーが試作した10トン車で箱根の山越えを試み、うまくいかなかったせいであるといいます。しかしそこから、道路事情が急速に改善し、トラックの性能もぐっと上がってきたため、ゴールデンルートへの進出を決めたのでしょう。
なお、東海道路線で荷を運ぶためには、免許を申請する必要がありました。当時、大和運輸を皮切りに、当時24もの業者が免許を申請し、20社が免許を取得、全国でも1、2を争う激戦路線となりました。
1950年代には、水力発電用のダムや石油化学コンビナートといった大型開発がいくつも行われました。巨大な資材を運ぶには、トラックも相応のサイズでなければいけません。そこで導入が進んだのが、トラクター(けん引自動車)とトレーラー(けん引される貨物車)でした。1954年には120トンのトレーラーが登場、以来毎年積載性能が上がり、1959年には300トンの荷を運べるようになりました。
300トンクラスのトレーラーともなると、積み荷を載せればもはや巨大な建造物といった印象です。
「こんなに大きな車が、この世にあるのか……」
地響きと砂埃を立てながら走るその姿を見上げ、当時の人々はさぞ圧倒されたでしょう。
鈴木朝生
丸共通運株式会社 代表取締役
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