未来のために今を生きる…「希望の物語」は幻想
「時間の価値の喪失」という状況は、私たちが人類史的な転換点に差し掛かっていることを示しています。人類の歴史に登場したイデオロギーにはしばしば「より良い未来のために、いまを手段化する」という考え方が含まれています。
たとえばキリスト教に「最後の審判」という考え方があることはご存じでしょう。世界の終わりにキリストが再臨し、「審判」の末に「天国に行く者」と「地獄に行く者」とが分けられる、という考え方です。
だからこそキリスト教徒は敬虔かつ勤勉に「いま」を生きなければならない、ということですが、これはまさに「より良い未来のために、いまを手段化する」という考え方として捉えることができます。ちなみに「最後の審判」はキリスト教だけに見られる考え方ではなく、ゾロアスター教、ユダヤ教、イスラム教のすべてに共有される世界観です。
また、マルクス主義では、人類の歴史がすべて「階級闘争の歴史」であったと整理した上で、この歴史はやがて、労働者の団結によって資本家が打倒され、階級対立も支配もない共同社会が訪れることで完成する、としています。
マルクスは宗教を否定したので、マルクス主義と教典宗教を「水と油」のように考えている人がいますが、両者の思考様式は非常に近接しています。ゾロアスター教やグノーシス主義では「善と悪との最終戦争の後に善が統べる世界が実現する」という物語を紡ぎますが、この物語の「善」を「労働者」に、「悪」を資本家に、「最終戦争」を「革命」に置き換えれば、それがそのままマルクス主義の唱える物語に換骨奪胎できることがわかるでしょう。
マルクスが「宗教は民衆のアヘンである」と指摘したことはよく知られています。だからこそ、実際にロシア革命以後、ソ連や中国などの共産主義国家において明確な政策的意図をもって宗教が弾圧されたわけですが、そのようなマルクス主義と、そのマルクス主義が強く否定した正典宗教とが実は同じ枠組みの物語を唱えており、数十億人というスケールの人々がその物語に陶酔したという事実は、私たちに大きな洞察を与えてくれます。
それは、私たち人間は、そういう類の「いま頑張っていれば、いずれ良い未来がやってくる」という「希望の物語」が大好きだということであり、これを逆に言えば、そのような「希望の物語」がなければ、私たちは生きていけない、ということなのです。ところが、そのような物語を、ついに誰も紡げなくなってしまった世界が、いままさに訪れているのです。
私たちが判断の拠り所としている多くの道徳や規範は「未来のために今を手段化する」という思考様式を前提としており、この思考様式は「未来の完成に向けて歴史が進歩していく」「明日は今日よりきっと良くなる」という確信を基底に置いてはじめて合理化されます。しかし「時間」が消滅してしまえば、このような規範や価値観の根拠は瓦解してしまうことになります。
また、これだけの物質的繁栄に恵まれているにもかかわらず、私たちの社会はなんとも言えない「空虚感」に満ちています。もし私たちの「歴史」がすでに終焉し、「時間」が消滅しており、しかも多くの人がそれに薄々気付いてしまっているのであれば、「未来の実現のために現在を手段化せよ」という社会的な規範や価値観に対して、人々が「空虚感」を覚えるのは当然のことでしょう。