幅広い役柄をこなせる名脇役の千栄子の価値
昭和31年(1956)の溝口は『赤線地帯』を撮り終えた後、『大阪物語』の撮影にかかっていた。当初、この映画での千栄子の出演予定はない。
しかし、撮影に入って間もなく、溝口が白血病を患って緊急入院してしまう。
代役の監督を立てて撮影は続行されることになり、千栄子にも出演依頼が入ってくる。撮影中に溝口が急死したために、『大阪物語』は、彼が関与した最後の作品ということになった。
千栄子からすれば、尊敬する溝口監督からその遺志を托された。と、そんな気持ちにもなったのだろうか、演技にはいつも以上に熱が入る。
自分でもいつも言っている通り、彼女は融通の利かない頑固な女優だった。与えられた役をとことん研究し、演技プランを練りに練る。納得できずに何度もリハーサルを要求して、共演者やスタッフを辟易させることもあった。
妥協を許さない巨匠とどこか通じ合うところがあるような……。ウマがあったのだろう。
千栄子はまた、木下恵介の作品にもよく出演している。木下はラブロマンスや社会派ドラマなど、どんなジャンルでも撮れる器用な監督だった。
上流夫人から庶民のおばちゃん、アクの強い憎まれ役など幅広い役柄をこなせる名脇役の千栄子とは、これもどこか通じるところがある。
昭和29年(1954)の『女の園』で、親戚の娘が停学させられたことに激怒する元気な小母を演じた。また、同年に撮られた『二十四の瞳』では、飯屋のおばちゃんで出演している。
木下は溝口と違って、役者やスタッフを怒鳴りつけたりはしない。そんな監督の人柄によるものか、木下組の現場はにぎやかで笑い声が絶えない。いつも柔らかい雰囲気につつまれていた。
役者に演技指導をする時も、木下の言葉遣いは丁寧で優しい。だが、その指示は細かく、求めてくることは難易度が高かった。すべてこなすのは大変だ。ソフトなムードに気を緩めてはいられない。
「木下先生の演出は親切でデリケートな中に、キビキビしたものが感じられ、ものすごく時間のたつのが早く感じられるのでした」
『水のように』にはこう書かれている。監督によって役者に求めるものは違う。それをすぐ察知して応えることも、演じる者には求められる資質である。
千栄子はそれをよく理解していただけに、彼女を使いたがる監督は多かった。
小津安二郎監督の『彼岸花』、黒澤明監督の『蜘蛛の巣城』、内田吐夢監督の『宮本武蔵』等々。日本を代表する巨匠たちの作品に出演者として名を連ねた。
週ごとに新作映画が上映される映画館の番組を埋めるために、撮影所はいつもぎりぎりの日程で、映画を大量生産したプログラムピクチャーの時代。
ゆえに少しの遅れも許されない。監督の意向をいち早く理解し、クランクインした時には与えられた役を完璧に作りあげている女優は、過酷な撮影日程をこなしてゆく撮影現場では頼りになる存在だった。