医学生の実像「5浪で合格したFさん」の場合
故郷を離れての高校生活
中学3年まで生まれ育った福島で過ごし、高校からは1歳上の兄が進学していた神奈川県の私立高校に通ったFさん。
中学3年の時は1カ月に1回、母親の友人宅に泊めてもらいながら模擬試験(以下、模試)受験のために東京に通うなど、地元の同級生たちとは違う高校受験の準備をしました。合格してからは、母親や弟と一緒に横浜へ移住しました。
父親は、福島の病院で腎臓専門の勤務医をしています。祖父は開業医で、叔父がその病院を継いでいるそうです。祖父の家の隣にはその病院があるため、物心がつく頃には、漠然と医師になりたいという思いを抱いていたそうです。
医師を明確に志すようになったのは、高校3年の秋に左膝を骨折したことがきっかけでした。地元の整形外科病院で治療を受けましたが、レントゲンを撮って「骨折」と診断されると、ギプスもせず松葉杖だけ渡されて特に説明も受けず帰されました。松葉杖がなくても歩けたので、松葉杖を使わず日常生活を送っていましたが、なかなか快方に向かわないので、同じ病院の違う医師に診てもらったところ、「これはいけない」と、すぐにギプスを巻いてくれたそうです。
生まれてはじめての大きなケガで適切な処置を受けられなかったことはショックでしたが、正しい処置をしてくれた医師がていねいな謝罪と経過説明をしてくれたことに心を動かされたそうです。そして、自分も、患者をただ治すだけではなく、心も元気にできるような医師になりたいと願ったと言います。
父親が浪人をやめろと言わなかった理由について、Fさんは「父親の同級生の子どもが誰も医師になっていないので見栄もあったのでは」と語っていますが、兄と2人の弟が文系ということもあり、1人くらいは自分と同じ医師の道を歩んでほしかったという思いが強かったのかもしれません。
母親は、勉強についてことさら発言することはなく、Fさんと弟の身の回りの世話をしながら、朝7時に予備校に入る息子のため、毎日お弁当を作るというサポートをしていました。子どもに多浪をさせるには、親にも負担と覚悟が必要なのです。
Fさんの通った高校は、当時1学年1200〜1300人ほどのマンモス校で、2年までは男女別学、3年で共学になります。これは、昔は男子校だった名残のようです。Fさん曰く、スパルタ式の予備校のような高校で、予備校に通わずとも学校のテキストをやれば志望校に受かる、という強い考えの下に指導されていたそうです。
Fさんが在籍したのは普通科で、その他に理数科があり、さらに難関大の受験に特化した中等教育学校がありました。中等教育学校は同じ敷地にありましたが、中高一貫の男子校で中学から通う人のみで構成されています。理数科は、医学部志望者が多く、Fさんが高校3年の時に通っていたS予備校で出会った友人は、全員理数科だったそうです。
故郷を離れ、さらに競争が激しく規律に厳しい高校生活でしたが、同級生たちと一緒に予備校に通うなど絆を深めていきました。彼らとは現在も連絡を取り合い、一緒にご飯を食べたりしているそうです。