日本が勢いづいた高度経済成長期。特に元気があったのは中小企業で、新規開業が相次いだ頃の活況は「第一次ベンチャーブーム」と呼ばれていた。1877年(明治10年)に創業した鍋清は、第二次世界大戦を経てゼロから再出発となったが、すでにこの頃には創業80年ほどにもなる老舗の部類だった。ご存じの通りその後景気は交代し、長い停滞期に入る。それでも生き残り続けた鍋清の「強み」とは何か。5代目社長の筆者が超長寿企業の経営戦略を振り返る。

老舗ならでは…「取引先との信頼関係」という強み

ベンチャーとの違いという点では、取引先との信頼関係をつくっていた点も鍋清の強みだった。

 

その代表的な存在が電動工具の世界的メーカーであるマキタだ。マキタとの付き合いは戦前から続いていた。

 

マキタの創業は1915(大正4)年で、牧田茂三郎さんの個人商店「牧田電機製作所」として、モーターの販売修理業を手掛ける事業を名古屋でスタートしている。法人化は1938(昭和13)年で、株式会社牧田電機製作所としてモーターの製造に乗りだす。

 

モーターの修理と製造にはベアリングが必要であるため、そこで鍋清と接点が生まれた。父がベアリングの代理店を始めたのが37年であるから、この事業ではマキタが最も古い取引先の一つだった。

 

「マキタの佐々木さんとは兄弟みたいなもんだ」

 

父が当時を振り返り、そう言っていた。佐々木さんは、のちにマキタの代表取締役専務となる佐々木諭さんのことで、年齢は父より4、5歳ほど下だった。

 

戦時中、牧田電機製作所は空襲を警戒して名古屋市内にあった本社工場を安城市住吉町へ移転させた。佐々木さんが27歳くらい、父が31歳くらいのときである。

 

「工場の設備などを木炭トラックに乗せて安城町へ移すんだが、戦時中だから人がいない。なんとか人をかき集めるんだが、それでも手が足りないから、俺がよく手伝っていたんだ」

 

父は当時を懐かしむようにそう言った。

 

「そこで関係が深くなったわけだね」

 

「そう。いつ、どこからB29が飛んで来るか分からない。緊張を紛らわすように二人で冗談を言いながら名古屋と安城を往復したもんだ」

 

いわば、父と佐々木さんは、戦場には行っていないが、戦友のようなものだった。そこで絆が深まり、戦後もさまざまな事業で接点が生まれる。

マキタの販売支援のため、2000万円かけて倉庫を建設

戦後の付き合いの中で最も大きな出来事となったのは、マキタの飛躍のきっかけとなった携帯用電気カンナ「モデル1000」の販売を支援したことだろう。

 

マキタは朝鮮戦争後の不況の波を受けて営業不振に陥り、一時、倒産の危機にさらされた。この危機を脱出すべく、1955(昭和30)年に社長に就任した後藤十次郎さんが次々と新しい戦略を打ち出した。その一つが独自製品の開発だ。

 

(※写真はイメージです/PIXTA)
(※写真はイメージです/PIXTA)

 

マキタはモーターを主力商品としていたが、モーターは独立した製品ではなく、工作機械、織機、木工機械などの部品として使われる。その事業モデルを変えるため、十次郎さんはマキタ製の商品開発を推進し、長年培ってきたモーター生産の技術を活かせる「携帯用電気カンナ」の開発に着手した。

 

こうして出来上がったのが国産として初となる携帯用電気カンナ「モデル1000」だ。これが大当たりだった。モデル1000は未経験者でも経験者と同じように作業でき、仕上がりが均一で美しい。しかも、輸入品に比べて圧倒的に安かった。このような点が全国の建築木工業者に評価され、飛ぶように売れた。安城のマキタは、電動工具の専門メーカーとして世界のマキタに成長していった。

 

問題は、需要が多過ぎて納品が追いつかないことだった。その状況をどうにかするため、父は1970年に2000万円近い資金を投じ、マキタが本社と工場を構える安城市に営業所と倉庫を作った。納品と流通の面でマキタと連携し、マキタの販売を推進しようと考えたのだ。

「マキタの販売支援」が鍋清を長寿化させたワケ

安城の倉庫は、マキタへのボランティアとして作ったわけではなく、鍋清のメリットもあった。

 

具体的には、安城に新拠点を構えて、安城、岡崎、碧南、豊田にて販売エリアを拡大することなどだ。この戦略について振り返る『いさりび』第2号(1971年5月)の記事にも、父はそのような指針を示していた。

 

すでに満杯状態となっている本社倉庫の予備として安城の倉庫を使い、将来的には隣接地を購入する。倉庫を拡大する計画があることや、安城の倉庫を配送センター化への布石にするとも書き残している。

 

ただし、鍋清のことだけを考えるのではなく、取引先であるマキタのことも考える。さらに、商売を取り巻く社会や環境のことも考える。実際、当時は自動車が普及する一方で道路整備が追いつかず、交通渋滞が深刻な問題になっていた。渋滞前提の遠距離輸送はドライバーを体力的にも精神的にも疲労させる。

 

安城の倉庫は、このような社会的な問題を解決する手段にもなっていた。この考え方は、簡単にいえば「売り手に良し、買い手に良し、世間に良し」という三者のバランスをとった近江商人の「三方良し」である。

 

自分たちの利益だけを追求すると、いずれ取引相手や社会全体から見放される。かといって、取引相手や社会ばかり立てていてはビジネスは成り立たない。父は当時から共存共栄の重要性を認識していたのだと思う。

 

「企業の寿命は30年」ともいわれるなかで、鍋清はこの時点ですでに平均寿命の2倍以上の歴史があった。それは決して自分たちだけの力で成し遂げたことではない。取引先や社会の協力があってこそなのだと父は理解し、感謝していたのである。

 

 

加藤 清春

鍋清株式会社 代表取締役社長

 

 

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※本連載は加藤清春氏の著書『孤高の挑戦者たち』(幻冬舎MC)より一部を抜粋・再編集したものです。

孤高の挑戦者たち 明治10年創業、ベアリング商社が大切にする経営の流儀

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加藤 清春

幻冬舎メディアコンサルティング

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