好景気に踊らない鍋清にも伝わった、バブルの熱狂ぶり
「24時間戦えますか」
そんなフレーズが大流行するほど、世の中は仕事とお金とエネルギーで溢れ返っていた。1980年代後半から始まった空前のバブル景気である。
振り返ってみれば、1985年の「プラザ合意」とその後の超円高は、バブル景気の引き金になっていた。
「株価、最高値更新」
「地価が全国的に上昇」
景気の良い文字が新聞に並ぶ。景気に踊らない鍋清の面々は比較的冷静に世の中の状況を見ていたが、見ているだけでも十分に熱気が伝わってきた。好景気に沸く世間と少しばかり距離を取りつつ、「為替や金利によってこうも世の中が変わるものなのか」と思いながら動向を見守っていた。
バブルの背景にあったのは政策である。円高不況への懸念から、日本銀行は公定歩合を5回にわたって引き下げた。
1987(昭和62)年2月には2.5%まで低下し、超金融緩和によって世の中にお金がジャブジャブ溢れる状況になった。そこに、積極的な公共投資が加わる。
儲かった会社が土地を買い、儲かった人が株を買い、「買うから上がる」「上がるから買う」の繰り返しでバブルは急速に膨らんでいった。
株価は1979年末からの10年間で6.3倍に上昇し、日本の地価合計はアメリカの地価合計の4倍になった。
明らかな異常値だったが、異常な環境のなかにいると異常性が分からないのかもしれない。ボーナスは増える。経費は湯水のように使える。
大学生は青田買いで早々に就職先が決まり、研修と称して就職先の会社が海外旅行に連れて行った。おそらく、ほかの会社に取られないように海外に「隔離」する目的もあったのだろう。
バブルで「簡単に儲かる人々」は羨ましくもあったが…
当初は都市部の大手企業や、大手勤めのお金がある人たちにしか関係がないような話だったが、しばらくすると地方都市の中小企業界隈にも景気が良い話が飛び込んでくるようになった。
当時はまだ携帯電話が普及していなかったため、社長である父、当時専務だった私、周りにいる幹部などへの投資の勧誘の電話が会社の電話に掛かってくる。
「株、やりませんか」
「先物、お勧めです」
そんな電話が多く、
「土地を買ってくれ」
「売ってくれ」
という電話も多かった。
「名古屋の地価が青天井らしい」
「あの会社、土地転がしで儲かっているようだ」
そんな話も自然と耳に入ってくる。実際、知り合いの中小企業の社長は、銀行から資金を借り入れて土地を買っていた。
「財テクだよ」
社長がそう言って笑う。そりゃあ、笑いたくもなる。彼が言うには、本業より簡単に利益を上げることができるのだ。そんな話を聞きながら「危ないことしているなあ」と少し心配になった。同時に、少し羨ましくも感じた。
鍋清も他人事ではいられなかった「バブル崩壊」
光が強いほど影は濃くなる。バブル崩壊はまさにその状態だったと思う。1989(平成元)年末、日経平均株価は過去最高となる3万8915円まで上がった。
「もうすぐ4万円」
投資家たちはそんな期待をして株を握り締めていた。ところが、ここで急に相場が冷える。地価と株価の高騰に危機感を強めた旧大蔵省が、年が明けた1990(平成2)年3月に金融機関に対して「総量規制」の通達を行ったのだ。
具体的には、不動産向け融資の前年比伸び率を総貸出の前年比伸び率以下に抑える。不動産業、建設業、ノンバンクへの融資状況を報告することを求め、規制に違反した金融機関に是正を指導する。
今と違い、旧大蔵省は絶大な権限を握っていた。旧大蔵省の通達はすなわち命令であり、金融機関は一斉に不動産関連の融資に慎重になり、むしろ融資の回収に向かい始めた。
通達そのものは1年半ほどで解除されたが、いったん逆回転を始めた歯車は止まらない。回収の勢いが加速し、バブル崩壊へと向かっていくことになった。
「株価がまた下がったらしい」
「あの会社、土地転がしで大失敗したそうだ」
2年前とは真逆の話が聞こえてくる。鍋清にとってはこのような話のほうが恐怖だった。不景気がどんなものかはプラザ合意後の円高で経験済みだ。バブルで儲かる会社が増えることについては「羨ましい」くらいにしか思わないが、バブル崩壊で倒産する会社が増えると、鍋清の経営に影響する可能性がある。
「今年も倒産件数が増えそうだな」
幹部の一人が呟くのが聞こえた。最も影響を受けていたのは不動産業だったが、鍋清の取引先である製造業も対岸の火事ではない。
財テクで笑っていた社長はどうにか難を逃れたようだったが、名古屋近隣では業績不振に陥った会社が増えた。
原因は本業の業績ではなく、地価の下落に伴う不動産投資などが主だった。最近になってあらためて調べてみたら、不動産関連のダメージがやはり大きかったようだ。
東京商工リサーチの調査では、バブル景気ピークの1989(平成元)年の不動産業の倒産は年間285件だったが、1991(平成3)年には1156件に急増し、1992(平成4)年も1169件が倒産していた。
「あの狂宴はなんだったのだろう」
切ないような懐かしいような感情を抱きながら、我々は粛々とベアリング事業に励んだ。たまに市街へ出ると、明らかに人が減り、空車のタクシーが増えていた。
(時代の変化は速いなあ)
「年々、変化のスピードが速くなっている」とよく言われるが「ほんとに速い」と実感したのはこのときが初めてだった。
バブルで踊った企業に回ってきた「ツケ」
バブル崩壊による一時的な不況は運よく回避できた。バブルの恩恵は小さかったが、ダメージも小さいならそれでよい。そう割り切れるところが鍋清の強みなのかもしれないし、鍋清が長寿企業になった要因の一つであるように思う。
その後もしばらくの間、景気は低迷し、経営環境は不透明になっていった。関西圏では、1995(平成7)年1月に「阪神・淡路大震災」が発生し、その影響を受けて、震災後の3年間で兵庫県近隣では震災関連の倒産が300件以上発生したという。
地元の第二地銀だった兵庫銀行が戦後初めて銀行として経営破綻したのも震災の影響だ。業績も重要ではあるが、自然災害は命に関わる。お金はまた稼げばよいが、命はそうはいかない。戦争のない今の世の中ではもしかしたら天災が最も恐ろしいのではないかと思った。
天災ほどではないにせよ、もちろん不況も怖い。この頃の国内経済で悩みの種となっていたのは不良債権だ。その代表的な例が住宅ローン専門の住宅金融専門会社(住専)である。これも結局、バブルで踊ったツケなのだろう。
住専は大手金融機関が設立した会社で、バブル期に不動産投資向けの融資を積極的に行っていた。旧大蔵省の総量規制の対象外となっていたため、銀行本体の不良債権を肩代わりする役目を負うようになった。その結果が、住専全体で6兆5000億円という巨額の不良債権である。
1995(平成7)年には住専8社のうち7社が行き詰まり、損失の穴埋めとして政府は6000億円以上の税金を投入した。しかし、状況は変わらず、世論から厳しく批判されただけだった。
「また『戦後初』か」
社員の誰かがそう言っていたのを思いだす。確かにバブル崩壊後の新聞では戦後初という言葉をよく見た気がする。もちろん、良い意味ではなく、悪い意味での戦後初だ。
例えば、1997(平成9)年は、4月に日産生命保険が債務超過に陥り、保険会社としては戦後初の破綻となった。
その半年後には、準大手証券の三洋証券が会社更生法を申請し、こちらは証券会社として戦後初めての倒産だった。
考えてみれば、戦後初の不況だったのだ。地価と株価が一方的に下がっていく。土地と会社の価値はあまり変わっていないが、価格は下がり続ける。「金融危機」という言葉を頻繁に耳にするようになった。
実際、倒産や破綻は金融機関が多かった。1997(平成9)年は、北海道拓殖銀行、山一證券、徳陽シティ銀行が破綻した。翌年の1998(平成10)年には日本長期信用銀行、日本債券信用銀行も破綻した。ここがおそらく金融危機のピークだったと思う。
そして、どういう巡り合わせか、それとも単なる偶然か、私は日本経済がどん底の状態にあった1998(平成10)年12月に、鍋清の五代目社長に就任することになった。
加藤 清春
鍋清株式会社 代表取締役社長
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