輸出産業に痛手…「円高で景気好転」の裏側
順調に力強く成長していく日本の国内経済に陰りが見えだしたのは70年代に入ってからだ。1971(昭和46)年8月、まず「ニクソンショック」が起こる。当時のアメリカの大統領であったニクソン大統領が、突然、米ドル紙幣と金の交換を停止すると発表した。
今は当たり前に為替レートが変動するが、第二次世界大戦後からしばらくの間は、米ドルと金の交換レートが固定され、間接的に米ドルと他国通貨の交換比率も固定されていた。この仕組みは一長一短だが、良い点としては、日本やヨーロッパ諸国の企業が為替レートの変動を気にすることなく輸出事業を育てることができた。
しかし、米ドルと金の交換が停止されたことで、為替相場は事実上の変動相場制に変わった。その結果、円高が進み、それまで1ドル360円だった為替レートは308円まで円高となり、日本の輸出産業が伸びづらくなった。
ちなみに、同様のことが80年代にも起きる。鍋清に戦後最大のピンチをもたらす1985(昭和60)年の「プラザ合意」だ。
このときは、当然ながらのちにプラザ合意が起きることなど誰も予想していない。しかし、360円から308円になるだけでも輸出企業は痛手だ。
今まで1ドルで売り、日本円で360円の売上が立っていた状態が、急に308円しか稼げない状態になるのだ。国内では、1972(昭和47)年にのちの内閣総理大臣になる田中角栄が「日本列島改造論」を発表し、「列島改造ブーム」が巻き起こった。
景気のさらなる向上を見越して土地のインフレが進み、買い占めが起きて地価が高騰した。末期には誰も住まない北海道の原野まで高値で売買されたほどの様相だった。
オイルショックで製造業に強烈な向かい風
景気の好転は良いことだ。しかし、この勢いは意外な要因で冷や水を浴びることになる。1973(昭和48)年10月に勃発したアラブ諸国とイスラエルの第4次中東戦争だ。
「産油国、一斉に原油の輸出価格を引き上げ」「原油市場、取引価格が3ヵ月で約4倍」そのような記事が新聞を賑わせる。「第1次オイルショック」である。これにより、化石燃料のほとんどを輸入に頼っている日本は大混乱に陥った。特に製造過程で油を使う製造業へのインパクトは大きく、強烈な向かい風になった。
参考までに当時の鉱工業生産指数を見ると、第1次オイルショック前の1971~1973年度(昭和46~48年度)は平均8.1%のプラスだったが、1974~1975年度(昭和49~50年度)は平均7.2%のマイナスに落ち込んでいる。
「狂乱物価」という造語が生まれるほど物価も上がり、1974(昭和49)年の消費者物価指数は23%まで上昇した。
誰が何を、どう勘違いして伝えたのかは分からないが、石油がなくなるとトイレットペーパーがなくなるという話が広がり、全国のスーパーマーケットにトイレットペーパーを買い求める人たちが殺到した。
2020年に新型コロナウイルスの感染拡大が深刻化したときも、スーパーマーケットの店頭からにトイレットペーパーが消えた。コロナ関連のニュースを見ながら、私は当時の様子を思いだし、つい笑ってしまった。「歴史は繰り返す」とよくいうが、パニックになると日本ではトイレットペーパーが消えるのである。
好景気の終了とともに「現在の社長」が入社
ニクソンショックとオイルショックを経て、気づけば高度経済成長期は終焉を迎えていた。国民総生産を見ても、1974(昭和49)年はマイナス1.2%と、戦後初のマイナス成長となった。
土地の買い占めを呼び込んだ列島改造ブームも雲散霧消し、不動産投機に走った企業は次々に倒産した。これも、景気は気持ちであることを表す典型的な出来事だと思う。好景気だと盛り上がり、勢いが付いたときのエネルギーは凄まじいが、一度でも冷や水をかぶると急速に冷える。投機熱は貯蓄志向に変わり、物価高も手伝って、消費は一気に冷え込んだ。
私が大学を卒業し、鍋清に入社したのは1978(昭和53)年で、まさに好景気が終わったときだった。
円高が進み、消費力は落ち、投資意欲がなく、あらゆる面で気力が落ちている。国内の工業界や鍋清のベアリング事業がどうなるかさっぱり見通しが付かなかったが、将来の五代目が家系的に「内定」していた私は自然と鍋清に入社することになった。
ちなみに入社翌年の1979(昭和54)年10月には「第2次オイルショック」が起きる。事の発端は同年の2月に起こった「イラン革命」により、OPEC(石油輸出国機構)が段階的な原油の値上げを発表したことだった。翌年の9月にはイラン・イラク戦争が勃発する。このような中東の情勢不安により、国際市場の原油価格は約3年間で約2.7倍に跳ね上がった。
景気悪化のなか、あえて「ゼロからスタート」したワケ
私が最初に配属になったのは、父が創業した「光清」という鍋清の子会社だった。
光清は創業メンバー7人で作った会社で、私はそのメンバーの一人になった。この会社こそ、まさにベンチャーだった。子会社設立の目的は、当時ベアリングのメインの仕入先であったNTNとは別のメーカーの小型ベアリングを扱うことだった。光清は、別メーカーのベアリングを扱うという点以外にも、鍋清のベアリング事業とは異なる点がいくつかあった。
例えば、鍋清が扱う大型ベアリングは受注生産品が中心だったが、光清の小型ベアリングは卸がストック(在庫)をもって行う事業モデルとした。
顧客についても、父をはじめ当時の経営陣は、将来の夢を語れる中堅から大手の企業をターゲットとする方針を打ち出した。製造業の景気は立ち往生していたが、たとえ業界環境が悪くても新しい挑戦はやめない。むしろ環境が悪いからこそ新しい挑戦によって風穴を開ける。それが父の考えであり、鍋清の方針にもなっていた。
ただ、現実は厳しい。ベアリング需要に暗雲が立ち込めているうえ、光清は新規であるため取引先がない。売上も一からつくらなければならない。まずは取引をつくるということで、飛び込み営業からスタートした。
私の担当は愛知県の豊橋から南のエリアで、営業は初の経験だったが、わりと伸び伸びと、楽しく仕事をした記憶がある。なかなか売れなかったが、それでも楽観的に取り組めたのは、かつて父がベアリングの卸業に可能性を見いだしていたように、私も小型ベアリングの事業に大きな可能性を感じていたからだろうと思う。
今でも記憶に残っているのは、初受注のことだ。富士機械製造(現FUJI)という大手工作機械メーカーだった。
売った成果より「自信を持って売れる商品か?」が重要
私は鍋清に入社した当初(1978年)、社長である父が創業した「光清」という子会社に配属された。今でも記憶に残っているのは、初受注のことだ。富士機械製造(現FUJI)という大手工作機械メーカーだった。
「また来たのか」
工場担当者がそう言って笑う。それもそのはず、営業に全力を注いでいた私は、夜討ち朝駆けで担当者を訪れ、小型ベアリングを売り込んでいた。最初は担当者も困惑しただろうと思う。しかし、通っているうちに、おそらく慣れたのだと思う。
その日もふらりと訪れると、「まあ座って休んで行け」といわんばかりに、椅子を指差し、お茶まで出してくれた。
「一つ頼みたいことがあるんだが」
担当者がいう。
「なんでしょうか。サンプルなら持っていますが」
「いいよ。サンプルは十分見せてもらったから」
そう言って担当者は笑った。すでにサンプルは何度も見せていた。
「実はね、新しい半導体装着機を開発することになったんだ。そこで、光清さんの小型ベアリングを使ってみようかなと思ってさ」
「本当ですか?」
「ああ。ただ、金額は小さいぞ」
「構いません! ありがとうございます」
そんなやりとりを経て、3万円の注文に至った。このとき、私は「良いものは売れる」と確信した。営業の成果は市場の影響を受ける。目をつぶっていても売れるときがあれば、いくら苦心しても売れないときもある。
重要なのは、成果ではない。成果は重要なのだが、それよりも自分が自分の商品を自信を持って売れるかどうかが重要だ。
「ゼロから実績を生んだ経験」がチャレンジ精神の根底
良いものであれば売れる。取引先が成長し、次の商売につながる。逆に粗悪なものは、市況に助けられて売れることもあるが、次の商売にはつながらない。ここでもやはり、「売り手に良し、買い手に良し、世間に良し」という三者のバランスをとった近江商人の「三方良し」の意識が必要なのだと思った。
取引先に寄り添うことが営業の基本であることを、私は光清の営業で学んだ。何も実績がない会社で、何も実績がない状態から、仕事をつくる。この経験が、私の社会人としての原体験となっているように思う。
社外的には、顧客や取引先の役に立つ重要性を身をもって感じることができた。社内的には、営業の最前線に立つ人の気持ちが理解でき、ゼロからイチをつくり出す難しさと価値を実感した。
社会人として初めて働いた組織の風土や文化は、後に転職したり起業したりしても、その人の仕事のスタイルやキャリア観に大きな影響を与えるといわれる。そのとおりだと思う。私が幸運だったのは、鍋清本体ではなく、できたばかりの小さな子会社に配属となったことだ。おかげで、なんでも自分で考え、チャレンジしてみる癖がついた。
そうした癖が、社長という立場になってからも、現状に満足することなく新たな挑戦を続けようとする姿勢につながっているのだと思う。
加藤 清春
鍋清株式会社 代表取締役社長
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