1877年(明治10年)に創業した「鍋清」。筆者はその5代目社長である。今や創業140年超の超長寿企業だが、戦争、バブル崩壊、震災といたあらゆる困難を経験してきた。時代を越えて生き残るためには、どうすればよいのか。ここでは第一・二次世界大戦期、鍋清が現在の主力事業「ベアリング」に参入したころのエピソードを紹介する。

第一次大戦期、「ベアリングの国産化」で事業拡張

ベアリングは摩擦を低減させる重要な部材で、あらゆる機械の部品として必要であることから「機械産業のコメ」と呼ばれて重宝されている。

 

(※写真はイメージです/PIXTA)
(※写真はイメージです/PIXTA)

 

ただ、今でこそさまざまな機械に用いられているが、鍋清がベアリング卸業に着手した当時はせいぜい製材機、木工機、モーターの修理などで使われている程度だった。また、ベアリング業界では日本製が高く評価され、世界でも日本企業がそれなりのシェアをとっているが、当時は日本製がなく、すべて輸入品だった。

 

一般的にベアリングと呼ばれているのは、自動調心式ボールベアリングというもので、これは1907(明治40)年にスウェーデンのSKFが開発し、日本に入ってきたのは1910(明治43)年だ。SKFは今も業界トップシェアをもつ会社だ。

 

業界外の人はおそらくピンとこない社名だと思うが、かつてボルボの親会社だったといったほうが分かりやすいかもしれない。この関係性からも分かるとおり、ベアリングは自動車製造の需要が大きい。現在も、国内需要の半分は自動車関連である。

 

「昔はな、輸入ベアリング1個が金の腕時計と同じくらい高価だったんだ」

 

かつて父にそう聞いたことがある。旧日本海軍などが購入して使っていたようだが、民間企業の需要が伸びなかったのは、ベアリングの認知度が低かったことだけでなく高価だったことも原因だった。

 

そのような状況を変えるために、ベアリングの国産化が始まる。そのうちの1社が、父が代理店となった東洋ベアリング製造(現在のNTNグループ)だった。

 

東洋ベアリング製造は、かつての鍋清商店とほど近い桑名でボールベアリングの研究製作を開始したのが始まりといわれている。

 

研究製作を担ったのは西園鉄工所の西園二郎さんで、大阪の機械工具商であった巴商会の丹羽昇さんが国産ベアリングの開発を依頼し、1923年からNTNの商標でベアリングの製造販売がスタートした。

 

国産化の大きな目的の一つは、当時の価格で1個5円ほどだった輸入ベアリングを1円にすることだった。工業化が進むなかでベアリングには潜在的な需要がある。価格が5分の1になれば、軍需に限らず、民間の製造業でも需要が顕在化する。そのような背景を踏まえて、父はベアリング事業への参入を決めた。これを機に、鍋清はベアリング事業を拡張しながら、卸業者として商社業のノウハウを蓄積していくことになったのだ。

 

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本連載は加藤清春氏の著書『孤高の挑戦者たち』(幻冬舎MC)より一部を抜粋・再編集したものです。

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