アフターコロナ予想を覆したサマーズ元財務長官の警告
2月17日の米国債券相場では、米ドル長期金利が急上昇した。代表的な金利の指標である10年米国債利回りは、上昇の目処と思われていた1.25%を一気に超え、一時1.30%まで上昇した。30年米国債利回りも上昇を続けて、FRBのインフレターゲットとして意識される2.00%を超えて2.095%まで上昇した。翌18日も米国債利回りは上昇を続けた。
背景には、バイデン大統領が追加経済対策として取りまとめる法案の総額が、かねてからの民主党の主張に沿って1.9兆ドルに近くなるとの見通しが高まったことがある。そして、米国経済が年央に回復することへの期待が上乗せされて、将来のインフレ期待/懸念が頭をもたげてきたという状況にある。
米国の消費者物価指標(1月)は事前の予想を下回っており、足元ではインフレ指標は弱いというべき状況だが、市場にはアクセルを踏みすぎるかもしれないという見方のほうが強まっている。
注目された論客の一人は、サマーズ元財務長官だった。サマーズ氏は米紙への寄稿のなかで、バイデン大統領と民主党の提案する経済対策案の規模は、米国経済を未知の領域へのステップに導き、この30年で目にしなかったようなインフレ圧力を形成しかねないと警告した。
新型コロナウイルスによる未曽有のショックの影響で、世界経済は需要が急縮小したあと容易には回復しないというのが通説であり、「財政による経済対策が大きすぎる」などという批判は、米国のみならず世界的にも経済学者の間に見られなかった。しかし、今回のサマーズ氏の寄稿は、一石を投じすものだった。
すでに米国経済が成長路線に回帰しつつあり、活性化しようとする段階にあるのに、1.9兆ドルもの追加策を講じれば、必要とする規模を超えてしまうことを懸念すべきだという指摘は、市場に驚きを与えたに違いない。
「過剰な経済対策」の指摘もバイデン政権は一蹴か
これは、議会での共和党の主張にも通じるところがある。共和党は、財政赤字の規模が拡大することへの懸念ももちろんあるが、最近では、経済が底離れをする段階で、重点項目を絞って財政出動などを実施すれば、十分に景気浮揚効果は高まるとの主張にシフトしつつあり、経済指標が上向く昨今、一定の説得力をつけつつある。追加経済対策の検討が進むなか、バイデン大統領をはじめとする民主党の主張は、これに真っ向から対抗するものである。
サマーズ氏に対する主張の論客として取り上げられたのは、クルーグマン博士である。彼は、規模が大きすぎる追加財政出動への懸念を大げさなものだと一蹴し、新型コロナウイルスにより破壊された経済の再生を戦後の復興になぞらえたパウエルFRB議長の発言を取り上げて、現時点では、需給ギャップの大きさはやはり問題にならないと強調した。
ホワイトハウスもサマーズ氏の見解に対抗する論陣を張り、経済対策が大きすぎるとの懸念を、見当違いな指摘だと批判している。イエレン財務長官は、就任会見から繰り返し、何百万人もの失業者が溢れている現状への危機感を強調して、財政政策で「大きく動く」ことの必要性を唱えて、連邦議会での速やかな判断と行動を訴え続けている。
論客たちの議論は真っ二つにわかれているが、どちらが正しいか、どちらに軍配が上がるかは歴史が証明するとしかいいようがない。連邦議会の勢力図は、上院の構成が民主党50議席対共和党50議席で同数だが、議長であるハリス副大統領がキャスティングボードを握る。下院は民主党が多数を占める。今回は、予算措置の形で法案を通せるようにしていることもあり、法案の中身を調整したとしても、民主党の主張が通りやすいと見るのが現実的だろう。民主党が1.9兆ドル規模の追加経済対策案を2月26日にも可決させる構えである。
さらに、バイデン政権は、より野心的なインフラ投資の提案を3月を目処に取りまとめる方針であると伝えられている。道路や橋、地方のブロードバンド整備など「ニューディール」政策以来で最大級のインフラ支出を検討するということである。これに、米医療保険制度改革法(いわゆるオバマケア)の拡充や公共部門の雇用プログラム、キャピタルゲイン増税を含む税制措置などもねじ込もうとする動きも加わる。財政支出は拡張する一方である。
債券続落、為替相場も変化…蘇る「2013年の悪夢」
金融市場では、すでに財政支出拡大を織り込んでいるが、ここへ来て経済活動の再開が重なったり、ワクチン接種が進み始めたりしたことで、米国経済の成長への確度の高まりとインフレ率上昇見通しを押し上げている。このため、米国債券相場は続落し、長期債を中心に利回りの上昇が続いている。
米国債の利回りは約1年ぶりの水準まで上昇し、インフレ期待は2014年以来の高さとなり、利回り曲線も期間の長短で利回り差がこの1年で最も大きい、スティープ化した状態になっている。このイールドカーブのスティープ化は、市場がコロナ禍後の経済回復の状況を予想して、債券取引に臨んでいることを示している。
加えて、財政ファイナンスの規模が拡大するなかで、次から次へと新発債の入札が実施される状況で、財務省と米国債のプライマリーディーラーは大忙しである。これだけ国債が発行され続ければ、いくら金余りとはいえ、食傷気味にもなるだろう。また、金融緩和政策の継続による金余りは、貯蓄率の上昇につながっており、景気回復軌道が鮮明になれば、消費がより歓喜され、これもインフレ率の上昇懸念に結びつく。
また、為替相場では米ドル長期金利の上昇が米ドルの支持材料になってきており、昨年第4四半期に見られたドル安傾向とは明らかにトレンドが変化している。当面、この傾向は続くだろう。
市場の記憶にあるのは、2013年5月、バーナンキFRB議長(当時)の量的金融緩和策の縮小に触れる発言をきっかけに、債券相場で大規模な売り(利回りの上昇)を引き起こした「テーパータントラム(マーケットの癇癪)」と呼ばれた現象である。債券相場で売りが売りを呼び、10年米国債の利回りが一気に1%も急上昇する事態になり、市場は混乱、米国の景気回復は結果的に遅れてしまった。
FRBには、その苦い記憶があり、今回も出口戦略やテーパリングというキーワードに市場がどれほど神経質であるか、気を配っているフシがある。FRBとしては、市場との対話を続け、緩和的なスタンスと短期金利の低位安定を継続することで、市場をうまく操り、経済が景気回復軌道に着実に乗るまでの時間を穏当に確保しようとの戦略が透けて見える。
インフレリスク…実体経済との乖離は?3つのシナリオ
現実には、世界レベルでの新型コロナウイルスとの闘いは、かなりの時間を要するだろう。集団免疫を獲得するほどワクチンが普及するのか、変異株の感染が拡大しないかといった疑念は残る。結果として、世界的な需要の回復にはすぐに至らず、2021年も世界経済は、もがき続け、V字型には回復軌道を描かないというシナリオも考えられる(1)。
また、主要国の景気刺激策が一定程度機能しても、なかなかインフレ率の上昇にはつながらず、物価上昇はあってもマイルドな進行にとどまり、低インフレと安定成長を取り戻すことも起こりうるシナリオだろう(2)。
実際、米国の失業率が低下し完全雇用といわしめた2009-19年ですら、物価指標は落ち着いた動きをしていた。米国の雇用指標は失業率で6.3%と雇用ギャップをまだ抱えていることを示しており、冷静に見ればインフレリスクは限定的との判断も首肯できる。米国の物価上昇圧力がFRBの目標である2.0%を持続的に上回る状況は依然小さいのではないだろうか。(2)のシナリオは望ましいシナリオだが、それに行き着くには市場はおっかなびっくりでもある。
今回のように、経済の回復を織り込みに行く段階で、金利が上昇することを予想した筆者でも、今後、時間を経ずに雇用や消費のギャップが埋まり、金利が持続的に上昇するという見方に傾くほど、経済成長には楽観的になれない。ただ、経済回復がより確かとなる局面では、やはり金利の動きは十分な注意を要する。テーパータントラムという悪夢のように、インフレに対する恐怖感が金利の急上昇につながり、それが景気回復の足かせとなるシナリオもないとはいえない(3)。
(3)はあくまでもリスクシナリオだが、今後しばらくは、上記3つのシナリオから、どれに傾くかを見ながら市場を注意深く見ていく必要があるだろう。
長谷川 建一
Nippon Wealth Limited, a Restricted Licence Bank(NWB/日本ウェルス) CIO