公演再開夢見ながら、狭く薄暗い納屋のなかで稽古
富田林の奉公先から逃亡して京都に移り住んだ後、自伝では父や実家の状況について語られていない。
また、晩年の彼女はよく新聞や雑誌などのインタビューで戦時中の話をしているが、そこにも父の話はでてこない。確証はないのだが、親子の縁は切れていたと思われる。
先祖伝来の田畑がないことから考えて、父親はもともと、よそ者だったのだろう。
すでに村を離れて行方知れず。そんなところだろうか。もしも、あの父がまだ村に住んでいたとすれば、戻る気にはなれなかったはずだ。
千栄子と天外は農家の納屋を借りて住んだ。おそらく、こちらは母方の親戚が世話したものだろうか。
「千栄子さんは、堺市から疎開してきはりましたんや。わたし一緒に暮らしましたが、気性のやさしい人やった。戦火が激しくなった時分でしたが、寛ちゃん(藤山寛美)ら七、八人の弟子が狭い納屋で、一生懸命、ケイコしてはりましたなあ」
昭和51年(1976)6月5日の『サンケイ(現・産経新聞)』紙面で、千栄子と一緒に疎開していたという親戚が、当時の様子を語っている。
この頃に藤山寛美が疎開先にいたというのは、おそらく戦中と戦後の記憶が曖昧になっていたと思われるが……、それでも、疎開先での暮らしぶりが垣間見られる貴重な証言ではある。
大阪から近いこともあり、当時、東板持には多くの人々が縁故を頼って疎開していた。納屋や離れなどに数家族が同居することも珍しくない。
千栄子と天外は大勢の弟子も引き連れて逃げて来たというから、狭い納屋は男女が押し合いへし合い、雑魚寝する過酷な状況だったことだろう。
台所を預かる千栄子は食料を確保するのも大変だった。食い盛りの若者たちの腹を満たすために、毎日、近隣の農家から米や野菜を仕入れてまわる。苦労は絶えない。
アメリカ軍は大都市を焼き尽くすと、地方都市にも爆弾や焼夷弾を落とすようになる。また、農村部でも敵の戦闘機が現れて、機銃掃射されることが増えた。
大阪を離れても安心できず、常に緊張を強いられる。しかし、そんな状況でも芸の修業は欠かさない。公演再開を夢見ながら、狭く薄暗い納屋のなかで稽古に明け暮れた。
彼女は教えることが好きで、弟子たちの指導にも熱心だった。
「芝居は手足でするもんやない。心でやるものや」
それが口癖。口で言って分からなければ、分かるまで徹底的に同じことを練習させて体に記憶させる。
なかなか厳しいお師匠さんだったようである。
松竹新喜劇の結成
8月15日の終戦で、悶々とした日々もやっと終わりを告げた。
もう空襲に怯えることはない。戦争は終わったのだ。戦意を萎えさせるとして、喜劇が目の敵にされることもなくなる。公演や巡業も自由にやれる。どんな脚本を書いても検閲で訂正を求められることなく、やりたかったことを存分にやれる時代になったのだ。
戦災で燃えた浪花五座はまだ復旧していないが、焼け跡には粗末なバラックの寄席や芝居小屋が建つようになる。戦地から復員してきた芸人が、薄汚れた軍服を着て漫才をやったりしていたが、それでも客はよく入っている。