大阪・住吉に引っ越した千栄子の新婚生活
落ち着かない新婚生活
千栄子と天外は、居候していた「岡嶋」から、大阪・住吉に引っ越した。
その翌年、昭和6年(1931)10月には松竹家庭劇が解散する。座長の曾我廼家十吾と渋谷天外の不仲が原因だった。
かつて天外は志賀廼家淡海一座に、脚本家兼役者として在籍していた。芝居のなかで歌う「淡海節」が大流行して人気を博した喜劇団で、地方への旅巡業が多い。
天外の脚本は少し理屈っぽく、当時の定番パターンである勧善懲悪の物語を好まなかった。それが下世話な娯楽を求める庶民の嗜好とはあわない。
また、喜劇界ではいち早く、女形から女優への転換を提唱するなど、新しい喜劇の創造をめざし性急な改革を求めたが、昔気質の芸人たちには、それも鼻につく。
仕事が激減した女形たちから憎まれ、袋叩きにされたこともある。
家庭劇結成後も、天外の姿勢は変わらない。
「そうやない。芝居ちゅうものはやなぁ」
と、見かねた十吾が意見することもよくあった。
喜劇はもともと、遊郭などで客を笑わせるお座敷芸の「俄」から発祥したもので、この頃の芸人たちはまだその流れを引きずっている。哲学書や文学を読み漁るインテリ肌の天外とは基本的に相容れない。
話し合うほどに意見の食い違いは大きくなり、いら立って喧嘩になることも増えた。
脚本家と看板役者の息が合わなければ、面白い芝居などできるわけがない。お互い少し頭を冷やして、考え直す時間が必要だった。
また、自信満々で書いた脚本が客に受け入れてもらえないことに、天外の心は挫けそうになっていたようだ。
家庭劇解散後しばらくは人と会うことが減り、自宅で思索にふけることが多くなったというのだが……。千栄子にとって、それは悪いことばかりではない。夫婦水入らず、のんびり過ごす時間ができる。
ふたりが暮らす住吉は、大和川を挟んで堺市と接している。大阪市域でも最南部の地である。
当時はまだ街灯が少なく、ランプを使っている家も多かった。深夜まで大勢の人々が行き交い、ネオンきらめく道頓堀とは違う。夜は暗く静寂に包まれていた。
新婚のふたりが愛を育むには最良の環境だろう。仕事が激減して収入面の不安はあっただろうが、千栄子にとっては一番幸福な時だったのかもしれない。
しかし、幸福はそう長く続かない。松竹側も家庭劇をこのまま消滅させようとは考えていない。冷却期間をつくって天外と十吾に頭を冷やさせてから、頃合いを見て家庭劇を再結成させるつもりだった。
解散から半年が過ぎた頃、松竹社長の白井松次郎が天外と会って説き伏せる。社長から言われたら、彼も嫌とは言えない。昭和7年(1932)には、道頓堀の浪花座で、再興松竹家庭劇の旗揚げ公演が行われた。
これで夫婦水入らずの生活にもピリオドが打たれる。