天外は松竹家庭劇を退団、劇団「すいと・ほーむ」結成
人々は笑いに飢えていた。松竹家庭劇も再開をめざして動きはじめた……が、困ったことに、座長の曾我廼家十吾と天外の関係が再び険悪になってきた。
昭和21年(1946)3月、天外と十吾がすき焼を囲んで歓談していた時のこと。
「そうやない。すき焼はこうやって食べるものやろ!」
その食べ方について口論がはじまり、ヒートアップしてつかみ合いの大喧嘩になってしまった。
おそらくお互いに鬱積した思いがあったのだろう。すき焼をきっかけに、それが爆発したようである。
以来、ふたりは一切会話しなくなり、顔をあわせれば団員たちの間にもピリピリと緊張が走る。劇団内の雰囲気は最悪だった。客を笑わせてなんぼの喜劇団がこれでは上手くいくはずがない。
5月になると天外はついに松竹家庭劇を退団してしまう。
当然、千栄子も夫に従って退団し、この翌月に劇団「すいと・ほーむ」を結成した。千栄子と天外を慕って家庭劇を辞めた25名の者がこれに参加している。
しかし、実績のある役者は数える程度で、素人同然の若い弟子たちばかり。彼らを早く一人前の役者に育てねばならない。それには巡業で鍛えるのが一番。と、各地へ旅巡業に出かけるようになる。
家庭劇を退団して松竹から給料はもらえなくなり、食べてゆくためにも巡業で稼がねばならなかった。
しかし、終戦間もない頃の交通機関は劣悪だった。汽車は超満員のすし詰め状態。
遅延して、一昼夜立ちっぱなしで夜明かしすることも珍しくない。旅館は雑魚寝、それでも屋根があって雨露をしのげれば文句は言えない。現代では想像もつかない苦難の旅である。しかし、その見返りも充分にあった。
テレビがまだなかった時代のことである。映画館のないような田舎では皆が娯楽に飢えていた。芝居の巡業が来れば人々が押し寄せる。
千栄子たちは戦後になっても大阪市内には戻らす、東板持に住み続けていた。
「すいと・ほーむ」結成後も、巡業が終われば村に戻って疲れを癒し、次の巡業に向けての準備や稽古をする。そして、村人たちに見送られてまた巡業に出かける。その繰り返しだった。
「サイダーが飲みたくて、飲みたくてしょうがないのに手に入らない。そんなとき浪花千栄子さんが、巡業先でサイダーを買ってきてくれた。その時のサイダーの美味しかったことが忘れられません」
当時、東板持に住んでいた親族にあたる女性の証言。
終戦直後は砂糖類が不足して、子どもたちは甘味に飢えていた。千栄子は巡業に出かけると、サイダーや菓子などを闇市で仕入れては、親族や知人に配っていた。
農家の納屋を借りての居候生活である。いろいろと気も遣っていたのだろう。
働き者の千栄子だけに、村にいる時にはモンペ姿に防空頭巾で、畑仕事を手伝うことがよくあった。
空襲の心配がなくなったのに、なぜ防空頭巾なのだろうか? それは、日焼けへの用心。頭巾を被って直射日光を避けていたのだ。農村生活と女優の仕事を両立するのはなかなか大変なことではある。
青山 誠
作家
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