アートに触れることで思考や人格に影響を与える
学びに即効性はない
最近はビジネス系のメディアで「アート」について語る記事が増えています。教養として美術史を学んだり、美術品の鑑賞法を解説する講座に通ったりと、アートに注目するビジネスパーソンは、確実に増えているようです。
ただし、ここで勘違いしてほしくないのは、アートとビジネスは、実利的に直結するものではないということです。得た知識をすぐに自分の仕事の成果につなげようとする発想は、アートからはほど遠い考え方です。
アートが示唆するものは、ある種の哲学のようなものであり、安直なハウツーに関するたぐいのものではありません。作品の解説にしても、評論家により解釈は実に様々です。解説者によって主張がかなり異なるような分野も珍しいと思われます。
アートは、視点や生き方など、包括的に私たちに影響をもたらすものなので、それを体系化したり言語化したりするのは、決してたやすいことではありません。
それらを表面的に捉え企画書に採り入れようとしても、コンセプトの上っ面をなぞるだけの中身がないものになってしまいがちです。
確かに作品の鑑賞を通して、アートが歩んできた破壊と創造の歴史を知ることで、様々な気づきもあるでしょう。
しかし、アートに触れることにより、自分自身が変わっていくような体験は、もしかすると5年後、10年後にストックされてきた知識が、ふと何かと結びつくことでようやく実感できるレベルなのかもしれないのです。アートと接して得られる効果は、いわばあなたという人間の中に澱のようにたまっていき思考や人格に深く影響を与えるものです。それは、即効性こそないものの、あなたを確実に人間的な成長へと導くでしょう。
炭鉱のカナリア
ビジネスパーソンに現代アートをおすすめする理由は、以前に少し述べたように現代アートが、「炭鉱のカナリア」のようなものだからです。20世紀後半まで、炭鉱で働く人は有毒ガスの危険察知のため、カナリアを連れていました。
「炭鉱のカナリア」とは、何らかの危険が迫っていることを知らせる前兆を指す慣用句ですが、これは炭鉱等で有毒ガスが発生した際に、人間よりも先にカナリアが察知して鳴き声がやむことに由来します。地下鉄サリン事件が発生した2日後の1995年3月22日、旧上91色村のオウム真理教施設に強制捜査が入りましたが、捜査に入った警察官の手にもカナリアの入った鳥かごがありました。