御寮さんが渡した逃走資金として5円の餞別
キクノは数え年で20歳になっていた。もうすぐ年季が明ける。間もなく父がやってくるだろう。
キクノをこの屋敷に預けて以来、彼が屋敷に顔を見せたことはなかった。
実家からここまで2キロ程度、子どもの足でも30分もあれば充分な距離なのだが。あいかわらず薄情な男である。しかし、金の臭いを嗅ぎつけたら、愛想よい微笑を浮かべながら必ずやってくるはずだ。
雇用を継続して、さらに何年か分の給金を前借りするか、あるいは、新しい雇先を探して連れて行こうとするだろうか? どちらにしても、彼女にとってよい結果は考えられない。
年季が明ける前月、御寮さんはキクノを呼び、
「これまで、ようやってくれたなぁ。これ少ないけど」
そう言って、5円のお金を包んで渡してくれた。本当はこのまま女中奉公を続けてもらいながら、縁談を見つけて嫁に出してやりたいと言う。
「でもなぁ」
その先を言いづらそうだが、御寮さんが何を言おうとしているのかは、すぐに察しがついた。
父を警戒しているのだ。来月には必ずここへやって来て、キクノの給金を前借りしようとするだろう。前払いを拒絶するのは簡単だが、そうなれば前借りのできる他の奉公先を探してくるはずだ。
親権が強い時代だけに、父が強権発動すれば御寮さんもキクノを守り切ることはできない。ここにいれば、キクノはたかられ続けることになる。
だから、
「あんたも、自分を大事にせんとあかんよ」
悪縁を断ち切って逃げろ。そう言っているのだ。
そのための逃走資金として、5円の餞別を与えてくれたのだろう。封筒に入っていた1円札5枚を眺めながら、勘の良いキクノはすぐにその真意を悟った。
「はよ逃げなあかんわ」
自室に戻り、すぐ荷造りにかかった。
御寮さんが仕立ててくれた着物が3枚、浴衣が2枚、さらに身のまわりの細々とした物をまとめると、2年前ここに来た時より荷物はかなり増えている。
それでも、なんとか1枚の風呂敷に収まった。