自分の意思で動きはじめた彼女は京都へ向かった
人々がまだ深い眠りのなかにいる夜明け前。お世話になった御寮さんに宛てた書き置きを残し、風呂敷を背負って抜き足、差し足で、こっそり裏口から抜け出す。人が見たら、泥棒と間違われるかもしれないと苦笑しながら、駅への道を急いだ。
しんと静まり返った朝の空気のなかで、石畳に下駄の音が響く。誰か気がついて追いかけてこないかと、心配になったりもする。
幸い、誰にも知られることなく、駅舎のなかに入ることができた。
夜が明けた頃、大阪行きの始発列車は発車した。客車の窓には、朝陽を浴びる金剛山の眺めがある。
10年前に仕出し料理店の奉公に出された時、そして、2年前に父と一緒に大阪から帰ってきた時も同じ景色を見ていた。しかし、はじめて自分の意思で乗った列車から眺めた風景は、過去とは違って見えたはずだ。
陽がすっかり昇って明るくなってきた頃には、間隔なく建ちならぶ小さな家々が、車窓の視界を遮るようになる。終点の大阪阿部野橋駅も近い。これからは自分の意思で行動する。列車に乗った時、心にそう誓った。
どこへ行こうか? それも自分の意思で決めなくてはならない。大阪はダメだ。仕出し料理店で奉公した時、祖母は父に仕事先を教えていなかった。それでも彼は、キクノの居場所を探し当ててやってきた。
父が土地勘のある場所では、すぐに見つけられてしまう。そうなった時に拒絶して追い返すことができるだろうか、そこまでの自信はまだなかった。大阪よりもっと遠くへ。父の知らない土地に行かなければ……。
「京都がええかもなぁ」
キクノは京都に行ったことがなく、縁もゆかりもない土地である。おそらく、父にとってもまったく想定外の場所だろう。
仕出し料理店の主人は、年に一度は従業員を連れて慰安旅行に出かけていた。その行き先は、いつも京都だった。
大阪からは簡単に日帰りできる近場。だが、当時の人々にはその距離よりもずっと遠くに感じる場所である。
現代は大阪・京都間を通勤や通学で毎日行き来する人も多い。しかし、この頃はまったく異なった文化圏であり、いまよりもずっと言葉や風習の違いが大きかった。
庶民が日常的に往来することは少なく、大阪から京都行きの列車に乗ると、「旅行」といった気分になってくる。その気分のわりには、所要時間は短く列車運賃は安くてすむ。ケチな仕出し料理店の主人にとっては好都合だったのだろう。
しかし、キクノは従業員の数のうちに入っていなかった。料理人のような特殊技術をもつ者に辞められては損失だが、彼女のような女中なら、いくらでも替えがきく。だから慰労して機嫌をとる必要もなく、慰安旅行ではいつも留守番させられた。
「やっぱり、京都は何回行ってもええとこやなぁ」
などと、職場の者たちが旅行の思い出話をする度にうらやましく、京都へ行ってみたいという思いが強くなる。
その思いが作用したのか。自分の意思で動きはじめた彼女の足は、京都へと向けられた。
青山 誠
作家
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