NHK連続小説『おちょやん』で杉咲花さん演じる主人公、浪花千栄子はどんな人物だったのか。幼いうちから奉公に出され、辛酸をなめながらも、絶望することなく忍耐の生活を送る。やがて彼女は銀幕のヒロインとなり、演劇界でも舞台のスポットライトを浴びる存在となる。この連載を読めば朝ドラ『おちょやん』が10倍楽しくなること間違いなし。本連載は青山誠著『浪花千栄子 昭和日本を笑顔にしたナニワのおかあちゃん大女優』(角川文庫)から一部抜粋し、再編集したものです。

自分の意思で動きはじめた彼女は京都へ向かった

人々がまだ深い眠りのなかにいる夜明け前。お世話になった御寮さんに宛てた書き置きを残し、風呂敷を背負って抜き足、差し足で、こっそり裏口から抜け出す。人が見たら、泥棒と間違われるかもしれないと苦笑しながら、駅への道を急いだ。

 

しんと静まり返った朝の空気のなかで、石畳に下駄の音が響く。誰か気がついて追いかけてこないかと、心配になったりもする。

 

幸い、誰にも知られることなく、駅舎のなかに入ることができた。

 

夜が明けた頃、大阪行きの始発列車は発車した。客車の窓には、朝陽を浴びる金剛山の眺めがある。


 
10年前に仕出し料理店の奉公に出された時、そして、2年前に父と一緒に大阪から帰ってきた時も同じ景色を見ていた。しかし、はじめて自分の意思で乗った列車から眺めた風景は、過去とは違って見えたはずだ。

 

陽がすっかり昇って明るくなってきた頃には、間隔なく建ちならぶ小さな家々が、車窓の視界を遮るようになる。終点の大阪阿部野橋駅も近い。これからは自分の意思で行動する。列車に乗った時、心にそう誓った。

 

どこへ行こうか? それも自分の意思で決めなくてはならない。大阪はダメだ。仕出し料理店で奉公した時、祖母は父に仕事先を教えていなかった。それでも彼は、キクノの居場所を探し当ててやってきた。

 

父が土地勘のある場所では、すぐに見つけられてしまう。そうなった時に拒絶して追い返すことができるだろうか、そこまでの自信はまだなかった。大阪よりもっと遠くへ。父の知らない土地に行かなければ……。

 

「京都がええかもなぁ」

 

キクノは京都に行ったことがなく、縁もゆかりもない土地である。おそらく、父にとってもまったく想定外の場所だろう。

 

仕出し料理店の主人は、年に一度は従業員を連れて慰安旅行に出かけていた。その行き先は、いつも京都だった。

 

大阪からは簡単に日帰りできる近場。だが、当時の人々にはその距離よりもずっと遠くに感じる場所である。

 

現代は大阪・京都間を通勤や通学で毎日行き来する人も多い。しかし、この頃はまったく異なった文化圏であり、いまよりもずっと言葉や風習の違いが大きかった。

 

庶民が日常的に往来することは少なく、大阪から京都行きの列車に乗ると、「旅行」といった気分になってくる。その気分のわりには、所要時間は短く列車運賃は安くてすむ。ケチな仕出し料理店の主人にとっては好都合だったのだろう。

 

しかし、キクノは従業員の数のうちに入っていなかった。料理人のような特殊技術をもつ者に辞められては損失だが、彼女のような女中なら、いくらでも替えがきく。だから慰労して機嫌をとる必要もなく、慰安旅行ではいつも留守番させられた。

 

「やっぱり、京都は何回行ってもええとこやなぁ」

 

などと、職場の者たちが旅行の思い出話をする度にうらやましく、京都へ行ってみたいという思いが強くなる。

 

その思いが作用したのか。自分の意思で動きはじめた彼女の足は、京都へと向けられた。

 

青山 誠
作家

 

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浪花千栄子 昭和日本を笑顔にしたナニワのおかあちゃん大女優

浪花千栄子 昭和日本を笑顔にしたナニワのおかあちゃん大女優

青山 誠

角川文庫

幼いうちから奉公に出され、辛酸をなめながらも、けして絶望することなく忍耐の生活をおくった少女“南口キクノ”。やがて彼女は銀幕のヒロインとなり、演劇界でも舞台のスポットライトを一身に浴びる存在となる。松竹新喜劇の…

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