「変わらなければならない」キクノの決断
道頓堀の仕出し料理店で働いた頃は、考えられないことだった。起きてから寝るまでこき使われ、自由になる時間など一時もない。使用人を信用していない主人は監視の目を緩めることなく、些細な失敗を見つけたら罵倒してやろうと手ぐすね引いている。まったく息が抜けない。常に緊張状態を強いられる日々だった。
その経験が彼女を強くしたのは間違いない。だがそれは、困難には抗うことなく耐え忍んでしまうことにつながった。これが運命と諦めて、あれこれ考えず大人しく従っていたほうが楽。と、「奴隷」の処世術がすっかり身についていた。
しかし、ハードワークから解放されたいま、キクノの心にも、しだいに変化が生まれてきた。
奉公先の屋敷を出て、石畳の筋道を南へ歩くとすぐに、石川の河畔へと通じる坂道がある。坂を下り切ると家並みは途切れて、河川敷の草むらが広がっている。草の上に座って眺めれば、清流とその対岸に広がる田園地帯、金剛山の山並みがある。
いまの彼女には、故郷の風景をのんびり眺めるだけの時間の余裕があった。
ホッとひと心地がつくと、いろいろなことを考える。今後の自分の人生についても、あれこれと……。
誰かに命令されるまま動き、1日が終わる。生きるのに必要な衣食は与えられるから、何の問題もなかったはずだ。しかし、人に従って動いているだけでは、いつまで経っても、人並みの生活をすることはできない。自分のためにどう生きればいいのか、将来を考えて、いま何をやるべきか?
変わらなければならない。
そのためには、捨てなければならない過去、関係を断ち切らねばならない者がいる。彼女も薄々気がついていた。
しかし、自ら動いて変化を起こすのは、途方もないエネルギーが必要になる。流れに逆らえば、あちこちに軋轢が生じて心身は疲弊する。それよりも、不満を心の奥底に閉じ込めて流れに身を任せるほうが、楽だった。
道頓堀での8年間で、その感覚がすっかり身についている。だが、
「このままでは、あかんわ」
これまでの過酷な日々のなかで封印してきた自我が、ついに目覚めた。
青山 誠
作家
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