「島原・天草一揆」でキリスト教の恐ろしさを実感
その不安は的中します。3代将軍徳川家光(いえみつ)の時代の1637年、島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)が起こります。キリスト教の信者、つまりキリシタンを中心にした一揆です。
島原の乱とも呼ばれますが、肥前(ひぜん)の島原だけではなく、肥後(ひご)の天草でも一揆が起きているので、島原・天草一揆として覚えましょう。
この一揆では、わずか14才とも言われる天草四郎(あまくさしろう/益田四郎時貞〔ますだしろうときさだ〕)を大将にします。彼には、目の見えない女の子に触れると、目が見えるようになったとか、海を渡ることができたとか、いろいろな伝説がありました。
さて、島原・天草一揆を、幕府軍は抑えることができません。関ヶ原の戦い以後、30年以上もほとんど戦いはなかったわけです。大坂の陣からも20年以上経っていました。当時活躍した30才くらいの武士は、もはや50才すぎ。当時の感覚で言えば、完全におじいちゃんです。おじいちゃんでは戦えませんよね。
若い者は戦争を経験していないから強くない。しかも、一揆軍はキリシタン中心ですから死を恐れません。島原の原城(はらじょう)にたてこもり、戦いを続けます。幕府軍は自分たちで勝利することができずに困ってしまいました。
しかも長引かせれば、全国の大名(だいみょう)が「な~んだ、幕府軍って大して強くないじゃん」と思ってしまいます。とくに外様大名(とざまだいみょう)にそう思われたら厄介です。関ヶ原の戦い以後に徳川家に仕えた外様大名は、もともと仕方なく部下になっただけです。機会があれば、反乱を起こす可能性だってあります。
困った幕府は、オランダに助けを求めます。
「お願いします。早く倒さないとマズイんですよ。協力してください」
そこでオランダ船は、一揆軍がたてこもる原城にバンバン砲撃します。さすがオランダ。一揆軍は弱りました。そこに幕府軍が突撃し、ようやく一揆を抑えることができたのです。
幕府はキリスト教を信じないように、徹底して厳しく取り締まりを行いました。キリストやマリアが描かれたものを踏ませる絵踏(えふみ〔踏み絵〕)を強化して、踏めない者は死刑にし、寺請(てらうけ)制度をつくって、仏教を強制的に信じさせるようにしたのです。
身をもってキリスト教の恐ろしさを知った幕府は、1639年にポルトガル船の来航も禁止します。1624年にスペイン、そして1639年がポルトガルです。逆にしないように注意してくださいね。
ちなみに2018年、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録されました。