急性の心筋梗塞で手術をしないと助からない・・・
聖路加病院の集中治療室の前に来ると、ソファに座りこんでいたマネージャーの吉沢が立ち上がった。顔がげっそりとやつれている。横には、スーツ姿の40前後の男が膝に手を乗せて座っていた。夏菜恋の彼であろう。画家を目指しているが、それでは食えないので美術関係のデザイナーをやっていると聞いた。
「こんな雪の中、ありがとうございます」
吉沢が頭を下げた。つられて彼も立ち上がって頭を下げた。
「夏菜さんの具合は?」
「急性の心筋梗塞です。エールフランスのスタッフが応急手当をしてくれたのと、空港近くの病院にすぐ搬送してくれたこともあり、なんとか助かりました。ですが合併症というか、左室が破裂して大出血する恐れがあると先ほど先生から言われました。準備ができ次第、手術をする必要があるそうです。手術しないと断続的な胸の痛みにより、亡くなるそうです」
吉沢は一気に話した。夏菜恋は、54歳。最近、同じ歳の経営者が心筋梗塞で亡くなったというニュースを見た。3日前までは、仕事をしていたという。寒い時期になると心臓に負担がかかる。
「以前から悪かったのですか?」
「『胸が苦しくなることがある』とは言っていました。それに血圧が高くて、下げるための薬を飲んでいました」
ラーメンの食べ歩きなど、油っこいものを食べていた影響もあるのであろう。体の調子が悪ければ、外国なんて行かなければいいのに・・・という言葉を飲み込んだ。
2人以上の証人の立ち会いで残せる「公正証書遺言」
「夏菜さんと話すことはできますか?」
「今は無理です。ちょっとよろしいですか?」
吉沢は手招きするしぐさをした。ソファから数メートル離れた廊下のくぼみにツチヤ税理士を導いた。マスクをした看護師が数人、ストレッチャーを押しながら、向かってきた。一瞬で前を通過し、集中治療室の中に吸い込まれていった。
「あの、今から私が社長から言われたことを先生に伝えますので、それを遺言書とすることはできるのでしょうか?」
吉沢は小声で尋ねた。
「残念ながら、できません。遺言書は必ず自筆で書かなくてはいけません。テープなどで録音したことを書き起こすことも認められていないのです」
パソコンで書くのも不可だった。
「社長が自筆で遺言を書くのは不可能です。どうすればよいのですか?」
「夏菜さんが、話すことができるのでしたら、公正証書遺言をやってみましょう。通常、公証役場というところに行く必要がありますが、今回のように遺言者が動けない場合は、公証人に病院まで来てもらえます」
「公正証書遺言というのがあるのですね。初めて聞きました。書類とか準備が必要ですよね?」
公正証書遺言とは、本人が遺言の内容を公証人に話して、作成する遺言方式である。2人以上の証人の立ち会いがあれば、自筆でなくてもかまわなかった。
「いくつか必要です。これからメールしますので、それをご覧になってください」
「明日、手術の前に書いてもらうことはできますか?」
「手術の前に書くのですか?」
「体力的にも弱っているので最悪なことも起こりうるそうです」
手術は胸を開き、出血した血液を吸引するというものらしい。
「なんとかやってみましょう」