兄の「起業失敗」から深まった2人の確執
部屋にチェックインする。21時を過ぎていた。ツチヤ税理士は自宅に帰ることを諦め、病院近くのビジネスホテルに泊まることにした。病院には1時間ほどいたことになる。吉沢はタクシーで自宅に戻ることにしたようだ。
夏菜恋の彼は、病室に泊まることにした。ノートパソコンの電源を入れ、メールソフトを起動する。橋本智子から送られてきたメールを熟読する。進行中の案件に関するいくつかの質問点があった。最後に今日はこれで帰宅すると書かれていたので、ホッとため息をついた。明日の段取りについて頭を巡らせた。夏菜恋の体調が回復することを祈った。
ツチヤ税理士の両親は、中野でお好み焼き屋を開いている。そのお好み焼き屋で年数回、話をするのが常だった。店内の客は気が付いてサインを求めにくる。そんなとき、嫌な顔一つしないで応じていた。
「個室がある高級レストランで打ち合わせたほうがいいのでは?」
と提案すると、一蹴された。
「あたしが東京で好きな店の一つがツチヤさんのところのお好み焼き屋さん。私、大阪で育ったから、これでもお好み焼きにはうるさいの。色々なお店に行ったけど、東京で唯一、認めたのがあのお好み焼き屋さん」
その割には、ブログやエッセイで取り上げてくれたことがなかった。
「予約しないと入れなくなってしまう店になったら困るじゃない。それにあたし、基本、仲間がやっている店とか、出した本とかはコメントしない主義なの。だって情が入るから、公平じゃないでしょ」
兄との確執を聞いたのも、中野のお好み焼き屋であった。夏菜恋が今日のようにブレイクする前は、仲がよいとは言えないが、絶縁状態ではなかったという。
夏菜恋のことを軽蔑していたが両親の命日には、顔を合わせて一緒に墓参りなどをしていた。風向きが変わったのは、10年前に兄が長年勤めていた通信関連のメーカーを退職して、インターネット関連のベンチャー企業を立ち上げてからだ。
夏菜恋の活躍に刺激されたのかもしれない。また当時は、インターネット関連のベンチャー企業が話題になっていた頃なので、自分も波に乗れるという考えもあったのであろう。兄はコンピューター関連の専門学校を出ただけあって、それなりにネットやパソコンに詳しかったが、経営者には向かない男だった。
小心者で僻みっぽい性格なので、人がついてくるとは思えなかったからだ。その上、営業経験もなかった。若い内に起業するのであれば、人は変わるかもしれない。しかし40半ば過ぎになるとそう人間は、変わることができないであろう。
当初は時流にも乗り、利益を出していたが、ネットベンチャーに対する熱狂が収まると、途端に売り上げが鈍ってきた。後はお決まりのパターンである。創業メンバーは退職。ストレス解消のため、水商売の女性に入れあげ、奥さんは子供を連れて実家に帰ってしまった。パソコンからスマートフォンへ主役が移行する流れにも乗り遅れ、今では開店休業状態であった。
兄弟姉妹に「遺留分」の権利はない
5年前、3000万円ほど貸したことがある。仲がよくないとはいえ、血の繫がった兄弟である。そのときまでは兄を助けたいという気持ちがあった。ところが、兄は壊れてしまったのか、その金を会社の立て直しではなく、悪い方向に注ぎ込んだ。女や車、極めつけは悪い取り巻きにそそのかされて始めようとした詐欺紛いのサイトの構築である。
百歩譲って女や車といった道楽に費やすのには我慢したとして、人の道に外れることはやってはいけない。夏菜恋は、初めて兄に対して意見した。
「少しくらい、売れたからと言って調子にのるな。この××××」
耳を傾けるどころか、そんな言葉を投げつけられた。流石に夏菜恋も切れてしまった。芸能界、一見、楽しそうな世界だが生き残っていくことが、どれだけ大変なことか。笑顔の陰で血が滲むような苦労をしてきた。それをすべて否定されたような気持ちになったと吐き出すように話した。
以来、兄とは連絡をとっていないという。1回、電話があったそうだが、無視したそうだ。
ツチヤ税理士は想像した。夏菜恋のパートナーに財産を渡す。考え方を変えるのは難しい。兄は半狂乱になるであろう。自棄になって言いがかりをつけてくるかもしれない。
法律上は、何も問題がなかった。相続人には、遺留分という権利があることが定められている。相続人には、相続する財産の最低限度を受け取ることができるという保障だ。例えば、配偶者と子供が2人いる場合、親が相続財産を配偶者と1人の子供に残すという遺言を書いたとしても、もう1人の子供が最低限の財産を受け取れるという権利である。しかし兄弟姉妹には、遺留分の権利がなかった。
したがって夏菜恋が、全額をパートナーに残すという遺言を残した時点で、兄は相続財産を受け取ることができなくなる。救急車のサイレンの音が聞こえる。ツチヤ税理士はカーテンを閉めた。