結局、書き直すことにした遺言書
看護師が部屋に入ってきた。
「大丈夫ですか?」
「用意も何もないわよ。まな板の鯉というのはこのことね」
「手術は必ず成功しますよ」
藤堂隆の目から涙がこぼれ落ちた。
「何、辛気臭い顔をしているの。行ってくるから」
夏菜恋はつぶやいた。
夏菜恋の手術は無事に終わり、1ヶ月後に退院した。さすがにしばらく、仕事は休むようだ。ツチヤ税理士のもとに連絡があった。公証役場に行って、遺言書を書き直すことにしたという。もう少し落ち着いてからのほうがよいのではと言ったが、「やれるときにやらないと後悔するから」と言って聞かなかった。
兄を許したわけではないが・・・
ツチヤ税理士が公証役場の前へ到着するとすでに夏菜恋が、待っていた。体が一回り小さくなったようだが、顔色が悪くなかった。
「早く着きすぎたみたいね。散歩しない? ずっと家に閉じこもっていたから、たまには外の空気を吸いたくなる。太陽の光って眩しいわね」
公証役場の裏手には小川が流れている。両岸は、歩行者専用の遊歩道になっていた。桜の木が植樹されている。川面に映った桜。光の加減により模様が変化している。杖を持った80過ぎくらいの老人が新聞を読みながら座っている。
「彼の言うとおり、遺産は半分に分けることにした。あいつに渡すくらいなら、あしなが育英会に寄付したほうがいいんだけどね」
「入院中、お兄さんとはなにか話しましたか?」
「あら、あいつが来たことをなぜ知っているの?」
「メールを貰いましたから。お兄さんがお見舞いに来たって」
「あら、そうだったっけ? ツチヤさんにメールしたかな。まあいいや。あいつ、色々とあたしの財産のこと探っていたのよ。適当にはぐらかしておいた」
ツチヤ税理士は、なんと答えたらよいか分からなかった。
「でもとりあえず彼の希望は叶えてやった。飛行機の中で死んでいた可能性だってあったわけでしょ。そしたら全額、あいつのところにぜんぶ遺産が渡ったことを考えると半分くらいはいいかなと思ったわけ」
「お兄さんに対する感情は少し変わりましたか?」
「全然。あたし兄のこと、許さないから。これでも結構、執念深いのよ。他人から馬鹿にされたこととかずっと覚えている。それよりツチヤさん、半分ずつ分けるとすると手続きはややこしくなるの?」
「大丈夫ですよ。ただ不動産を半分にしたりすると面倒になるので、この財産は兄、こちらのほうは藤堂さんって指定する特定遺贈という方式を採られるとよいと思います」
「特定遺贈! なんか難しいそうね。まあ、ツチヤさんに任せる。そういえば、昔、『レインマン』という映画があったわね。若い頃のトム・クルーズが出ている映画。20年振りに観てみたら、色々と考えさせられることがあった。ツチヤさんも観たことある?」
ツチヤ税理士は、観たことがあった。たしか父の遺産を巡る兄弟の葛藤を描いた作品だった。正確には思い出せない。
春風が吹いた。南風である。桜吹雪が二人の頭上に舞った。もう一度、レインマンという映画を観てみようとツチヤ税理士は思った。