遺言書通りの実行を監視する「遺言執行者」
夏菜恋を乗せたストレッチャーが集中治療室から運び出された。そのあとをツチヤ税理士、橋本智子、吉沢可南子、公証人の石井伸之、そして夏菜恋の彼の5人が続いた。向かう先は7Fにある個室である。遺言の発表を集中治療室で行うわけにはいかないからである。個室は埋まっていたが、なんとか特別料金を払って確保できた。
「遺言執行者は、ツチヤ税理士でよいですよね?」
エレベータの前で石井伸之がツチヤ税理士に尋ねてきた。石井伸之は68歳。元裁判官だ。業務提携を結んでいる弁護士の先輩である。遺言執行者には、被相続人が残した遺言通りに実行されたかを監督する役目がある。
会社の経営者が亡くなった後など、その保有財産が漏れなく相続人に渡ることは難しいことがある。株式や会社名義の財産など、相続財産を受け取る者がすべて把握しているとは限らないからだ。番頭的な役割をしていた者がごまかす恐れもある。
夏菜恋も事務所を会社名義としているほか、アジアンレストランのオーナーとなっており、その収入、さらに書籍の印税など、現金や自宅以外に多数の財産はあった。出版不況の昨今、本などそう売れるものではないが、亡くなってすぐのタイミングで出版したりすれば、爆発的に売れる可能性もあった。
遺言執行者は、弁護士や行政書士などの資格を持った者が実は望ましい。ツチヤ税理士は行政書士の資格も持っていた。
「はい。証人はマネージャーの吉沢さん、そしてうちの事務所の橋本の2人です」
吉沢可南子と橋本智子が「よろしくお願いします」と言って頭を下げた。夏菜恋の頬がこけている。酸素マスクを着けているので、話すのは大変そうだが、呼びかけには反応できる。
夏菜恋の意志を基に作成される公正証書遺言
看護師が夏菜恋の酸素マスクを外した。
「突き当たりのナースステーションで待機していますので、何かあればすぐに声をかけてください」
と言って個室から退出した。
「それではこれから公正証書遺言の作成を始めます。鮫島徹さんどうぞ」
石井伸之が低い声で宣言した。鮫島徹は夏菜恋の本名だ。
「私は、次のとおり遺言する。預貯金はあしなが育英会に寄付する。それ以外のすべての財産を長年お世話になった藤堂隆さんに相続させることにする。この遺言を誠実に実行してもらうために、新宿区のツチヤ税理士を遺言執行者に指定する」
夏菜恋は、かすれた声で話した。ツチヤ税理士は、夏菜恋の彼氏が藤堂隆という名前であることを初めて知った。