ツチヤ税理士のスマホに表示された「夏菜恋」
「電車が止まる前に帰ったほうがいいよ」
ツチヤ税理士は、職員の橋本智子に声をかけた。
「朝、電車が遅れるのが嫌なので、今日はここに泊まっちゃおうかな?」
朝から降り続けている雪は、都心でも20センチにも達する恐れがあると報じられていた。
「やめとけ。徹夜するとその週は、使いものにならなくなる」
「だって仕事、全然終わらないですよ」
橋本智子は不服そうに言った。採用して半年の見習職員だ。170センチと身長が高い。証券会社の総合職として7年勤めたあと、税理士になりたいと言って志望してきた。在職中から税理士を目指していたが、多忙なため勉強時間を捻出できず、まだ2科目しか合格していない。ずば抜けて頭が切れるわけではないが、馬力はあった。
それに証券会社で培ったのであろう。クライアントが大物でも物おじしない度胸もある。しっかり教えこめば、大活躍してくれそうな予感はあった。2月、確定申告や企業の決算の関係で最も忙しい時期だ。ツチヤ税理士も毎晩、遅くまで書類と格闘していた。今日も定時を過ぎていたが、まだまだ仕事が終わる気配はなかった。
ツチヤ税理士は窓を開けた。横殴りに粉雪が降り続けていた。路面にもはっきり雪が積もっているのが分かる。車は徐行していた。
「わあ、これは大変だ」とつぶやいたとき、スマートフォンが振動した。ディスプレイに夏菜恋と表示されている。
最悪の場合、あと4日位しかもたない!?
1ヶ月前に会ったときは、遺言を書くことを勧めた。その気になったのであろうか?
「今、お話して大丈夫ですか? マネージャーの吉沢です」
「どうしました?」
ツチヤ税理士は、嫌な予感がした。
「社長がパリから戻る飛行機の中で倒れたのです。救急車で空港近くの病院に搬送されました。心筋梗塞だということで応急処置を施されたあと、専門の先生がいる聖路加病院に移されたのです。集中治療室で今、手当を受けています。さきほど先生から合併症があるため、最悪の場合、あと4日位しかもたない恐れがあるということでした」
吉沢は一気にまくしたてた。橋本智子がキーボードを打つ手を止めて、こちらに視線を注いでいる。
「『ツチヤさんを呼んで』と繰り返しているので、連絡いたしました。お忙しいところすみません」
「わかりました。今から行きますよ」
「雪も降っているので明日の朝からでも」
「一刻の猶予も争います。集中治療室には外部の人が入れるのですか?」
「私のほうで病院に話しておきますので、それは大丈夫です」
吉沢の声が柔らかくなった。夏菜恋とは、20年前からの付き合いだった。当時は今のようにブレイクしていなかった。成功すると態度が変わる人が多い中、夏菜恋の腰の低い姿勢は変わらなかった。もっとも仕事に関しては、シビアなようだ。マネージャーは頻繁に替わる。
「何度注意しても同じ失敗を繰り返すのでクビにしたわ。ツチヤさん、誰かいい人いたら紹介してくれない? 給料はたくさん出すから」
真顔で聞かれたことがある。今の吉沢は、2年近く勤めている。長く続いているほうであろう。
ツチヤ税理士は、ノートパソコンの電源を落とすと鞄にしまい込んだ。
「緊急な要件が発生したので出かける。なんかあったら携帯に連絡してくれ。無理しないようにしなさい」
帰れとは言えなかった。手帳を取り出し、明日の予定を確認する。アポイントも入っているが断わらなくてはいけないであろう。
「身内の人が具合でも?」
「夏菜恋さん。聖路加病院のICUにいるようなので、今から行ってくる」